障害受容×映画の紹介
(3曲絶対にお伝えしたい曲があります!)
こちらの映画、ショービジネスのなんかしらのミュージカルでしょ、くらいに思っている人がいると思いますが、障害理解についてのポイントがつまりにつまっているので、まだの人はぜひ見てみてください。
髭のある肥満体の女性
This is me
疎外感を感じる人を勇気づけるパワフルな曲です。いわゆる、みんなちがってみんないい、という言葉では収まりきらないものがあります。
自分が自分らしくあるために、obstacles邪魔するものと闘う、見えないような扱い、虫けらのように扱われるのはもううんざりだ、このように創られたこの身体で生きていく、ごめんなさいなんて言わないで生きていく、という歌です。
シホっぴ解説
障害ある子供の母親としては、この映画を見るのに非常に勇気がいりました。
実際、この映画が出たばかりのときは、気分が悪くなりそうな話だな、と思って、見ませんでした。
さまざまな個性をもちながらも日陰に生きてきた人々を集めたショーを興す話、と映画評に書いてあることが多かったのですが、もうすこしexplicitに、直接的に、言いなおしますね。
なんのこっちゃ、この映画は、バーナムという男が身体的特徴のある人たちを集めて見世物小屋を開いて金儲けする、という話(ざっくりですし、バーナムは少なくとも悪い意図をもって事業をしているわけではありません。←もろもろすっとばして書いている、時代も違うのであしからず)です。
普通とは違った個性的な身体的特徴を持った人間=freak (freakというのは、奇形や変態を意味します)を集めて、障害者への偏見が強い時代に、フリークマンショー、日本語でいうと、(不愉快な言葉は避けたいですが言いますね)見世物小屋、を開いたよ、という話です。
なんの抗議運動だと思いますか?
障害者を見世物にして金を稼ぐことの不道徳を非難する抗議、だと思いましたか?
いいえ、そうでは、ありません。
障害者をこの街にいれるな、気味が悪いから出ていけ、見えるところにくるな、という抗議運動です。
小人症、巨人症、アルバイノ(色素が薄い遺伝子疾患)、結合双生児、黒人女性・・・
誰もみたことのない不思議な生き物を見てみよう、これはNGでしょうか。奇妙な目で見られる、好奇の目にさらされることは、身体的特徴をもつ障害者にとってどのような気持ちがするものなのでしょうか。
それを生業にすることは道徳的でしょうか。美しさとは何でしょうか。醜さとは何でしょうか。
障害児のママをしていると、健常の子供が近づいてきて、質問をしてくれることがあります。
このチューブは何?どうやって呼吸をしているの?この子は歩けるの?3-7歳くらいの子が一番積極的に質問してくれるような気がします。
逆に、まるで見てはいけないものを見たかのように、こちらのことが気になっている子供の手を引いて、まるで見えない壁でもあるかのように接されて(今は下の子を育てているからそれぞれに時間がなく子育てに必死で忙しいのがよくわかるので誰も大した悪気がないで過ごしているという前提で生きていますが)悲しいなと感じたこともあります。
これは、私が障害児の親になるまで知らなかったことなのですが、障害児のまわりには実に多くの助けの手があることが多いです。
肢体不自由児に対しても一生懸命話しかけてくれる人たち。
肢体不自由児に対しても一生懸命話しかけてくれる人たち、コミュニケーションをあきらめないひとたちに囲まれて日々過ごしているので、話しかけると不愉快な思いをさせてしまう、その子の状態について話題にすることはタブーなのではないか、という心配はあまりしなくてよいように思います。
逆に、避けるようなしぐさをされると、この方は、今までspecial needsのある人と接してきた量が少ないんだな、ということがこちらとしてはわかるだけ、という感じです。
本人に全く話しかけないで私に話しかけてる人をみると、肢体不自由の子供たちと接したことがないんだなと分かります。
逆に子供に優しい目線を注がれると、なんらかの関わりをもったことがある人なのかな、と思います。
実際に、どのようなつながりを関係性をもったことがあるのか、ということを言葉にしながらアプローチしてくださる優しい方に出会うことも少なくありません。
ゆりちゃんといると、いつも上昇気流に乗っているようなきもちになります。実によい出会いに恵まれます。
障害者は、忌み嫌われるものなのか。隠れていないといけないのか。
さて、障害者は、忌み嫌われるものなのか。隠れていないといけないのか。
見える場所にいること、が、まずは、最初の戦いだったんだ、グレーテストショーマンの時代の社会の障害者の受け止め方を見るとよくわかります。
バーナムがこう言いました。
The nobelest art is that of making others happy
最も崇高な芸術とは、人を幸せにすることだ。
身体的特徴のある人に、あなたがショーの主役だ、あなたの個性がほしい、とアプローチするバーナム。
初めて光のある場所に連れてこられた演者たちは、人前にでる恐怖に打ち勝ち、誇りをもって歌い踊ります。
娘はアイカルディ症候群
私の娘は、アイカルディ症候群という障害者手帳1種1級の希少難病児ですが、アイカルディ症候群の子供たちの間に共通的なお顔の特徴や身体的特徴はありません。
難治性のてんかんのある神経疾患系の子供によくある、ほわわんとしたやわらかな雰囲気のお顔の子が多い感じです。
普通の赤ちゃんの隠れ蓑にかくれる、とでもいったらいいのか、障害児の感じをできるだけ消してカモフラージュして世の中に紛れることが可能で、長いこと、実に長いこと、静かに寝ているいい赤ちゃんとそのママ、として私はゆりちゃんと快適にお出かけをしてきました。
騒ぐでもないゆりは行く先々で障害のことを打ち明けてもとてもやさしい対応を受けてきましたfavorableよく受け止められてきました。
しかし、身体が大きくなってきていて、もう赤ちゃんには見えなくなってきました。世界は赤ちゃんに無条件に優しいです。
magnetのように町の人が近づいてきては可愛いねとよく言われたものでした。ずっとこのままの大きさでいてくれれば、と障害児の親なら思ったことがあるでしょうね。
私はゆりちゃんに関しては、やっと今頃になって、見た目について考えるようになってきました。特に、気管切開分離術を先月したので。
てんかん発作
そういえば、かわいい赤ちゃんねと近づいてきたおばあちゃんの前で、ゆりちゃんがてんかん発作を始めたことがありました。
発作だ、と私がいうと、そのおばあちゃんは、ぜんそく発作なのか、と突っ込んだ質問をするので、てんかん発作があるんです、と答えました。
どのようにこたえると、違和感をうむのか、どのようにこたえるとsympathy共感を得られるのか、十分に場数を踏んでいません。
質問者の理解の許容量を踏まえたうえで質問に対する答えの内容は何が適切なのかを見極める千里眼はまだありません。
そのおばあさんは、眉をひそめて、まるで汚いものでも見るかのように表情を変えて、その場を離れました。てんかんという言葉を使いたくなくなりました。
小耳症という疾患
一方で、しゅんくんは「小耳症」という疾患をもって生まれてきました。
それ以外はいたって健康ですが、右耳が小さく丸まっています。片耳が小さく丸まっているので左右の非対称性があるのです。
生まれたばかりのしゅんくんを、私は、とても恥ずかしく思い、新生児用の帽子をそっと深くかぶせました。
ゆりちゃんを育ててきたのにもかかわらず、我が子を恥ずかしく思っている自分を非常に軽蔑しました。
ゆりちゃんのときに、実に多くの診療科をめぐっているのですが、そのとき縁がなかった、形成外科にしゅんくんを連れて行くことになりました。
(小耳についての有用な情報も発信したいのですが、またの機会にしますね。手短にいうと、埼玉県戸田市の名医永田先生は少し前にお亡くなりになられたので、現在ほぼ皆さん札幌医科大学の四ツ柳先生のところで再建術をするのがトレンドになっています。耳の再建は非常に難易度が高いそうです。)
見た目のコンプレックス
見た目のコンプレックスというのは、どんなに小さいものでも、本人やその親を海の底に沈め苦しめることがあります。感じ方はそれぞれに違い、本人にとっては、とても重要なことなのです。
小耳症の子供も、あっけらかんと明るく生きて、耳を隠しもしない子もいれば、髪は絶対にロングにしておろして決して見せないようにした子もいます。
しゅんは今のところ前者なのですが、思春期にどのような気持ちの変化を経験していくのかは未知です。
眼瞼下垂や口唇口蓋裂など、見た目、機能、両方の面から手術の適用のある子どもをもったときに、子供自身の気持ちへの感情移入(いじめられやしないか、心の健康への影響は、逆に手術したことによる自己肯定感への影響はetc.)
と、そういったことを自分は直すことだと思っているのか、自分のなかには差別意識があるのか、どこまでが治療でどこからが美容なのか、親として子供が何歳の時に何をするべきなのか、親の意図は子供の意思決定にどのように影響をするのかしないのか、あらゆる自問自答をすることもあるでしょう。
見た目とは何か、社会的に何が好意的に受け取られ、何が忌み嫌われるものなのか、見た目のadvantageとは、disadvantageとは、どのような態度(たとえばhumble)で生きればそのようなflaw欠点すらも愛されるように楽に生きられるのか。
This is me 和訳
それでは、This is meの和訳を!
曲は、選べなかったので2パターンのせておきます。ぜひ、音を出して、聞いてみてください。
I am not a stranger to the dark
私は暗闇と縁がない、なんていう人ではないの、暗闇を知っているわ
Hide away, they say
日の当たる場所はあなたには似合わないから隠れていて、そう言われてたことがあるわ
‘Cause we don’t want your broken parts
あっちへいけ、醜いものは見たくない
I’ve learned to be ashamed of all my scars
私は自分の傷を恥じるようになったわ
Run away, they say
失せろ、という声が聞こえる
No one’ll love you as you are
誰もお前なんて愛さないよと
But I won’t let them break me down to dust
ゴミのように扱われるのはもう耐えられない
I know that there’s a place for us
私たちにだって居場所があるはず
For we are glorious
私たちが輝くための場所がね
When the sharpest words wanna cut me down
とげのある言葉が私を切り裂こうとする
I’m gonna send a flood, gonna drown them out
そんなときは、洪水を起こして、しずめてやる
I am brave, I am bruised
傷だらけだけど、私は勇敢なの
I am who I’m meant to be, this is me
これが私なの。図らわれてこのように生まれた。
Look out ‘cause here I come
ほら気をつけて、私が通るわよ
And I’m marching on to the beat I drum
自分の刻むリズムで進んでいくわ
I’m not scared to be seen
見られることはもうこわくないわ
I make no apologies, this is me
謝ったりしないわよ、だってこれが私なのだから
Another round of bullets hits my skin
無数の罵声を浴びせられる
Well, fire away ‘cause today, I won’t let the shame sink in
お好きにどうぞ 恥が私を支配することはもうないわ
We are bursting through the barricades
そのバリケードは突き破ってしまうわ
And reaching for the sun (we are warriors)
そして太陽に手をのばすの(私たちは戦士よ)
Yeah, that’s what we’ve become (yeah, that’s what we’ve become)
そうこれが私たちふさわしい姿なの
ソングライター: Frank David Martin, Kipner Stephen Alan, Sheyne Pamela Eileen。
最後はこの言葉で。
No one ever made a difference by being like everyone else.
みんなと同じように同化することをよしとしてる人で、世界に変化をもたらした人なんていない。
Disability is the inability to see ability.
ability=できること、そのひとが何ができるのか、ということを、the inability to see=みる、そういうことに対して焦点をあてることができないということをDisability=障害、と言いましょう。
ではでは。