ポジティブ英語

エイブリズムとは、能力のある人が優れているという考えに基づいた、障害者に対する差別と社会的偏見を意味する言葉。

エイブリズムとは、能力のある人が優れているという考えに基づいた、障害者に対する差別と社会的偏見を意味する言葉。

障害受容×言葉の紹介12

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シホっぴ
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今回は番外編として「詩=ニュース」に置き換え【NPRニュース】の記事を読んでみたいと思います。National Public Radioというのは、アメリカの非営利の公共放送局で信頼のおけるメディアです。

記事原文はこちら
Here’s what to say and not to say when discussing disability : NPR

記事のタイトルは
“障害について語るときにwhat to say言っていいことnot to say悪いこと” です。

エイブリズムに触れているNPRの記事を訳す前に

エイブリズムに触れているNPRの記事を訳す前に、まず、Ableismの定義について触れます。エイブリズム、とは、能力のある人が優れているという考えに基づいた、障害者に対する差別と社会的偏見を意味する言葉です。

例えば、

  1. 建物の設計にアクセシビリティの観点を取り入れないこと
  2. 障害を持つ人は、治すことを望んでいる、治すことが必要であると思い込むこと
  3. メディアで障害を悲劇的あるいは感動的なものとして取り上げること
  4. 障害のある人に対して、幸せで友好的で素朴、あるいは、予測不可能で危険、などのステレオタイプに当てはまると思い込むこと
  5. 障害のある人に対して子供に話すように話しかけること
  6. 障害のある人に直接話しかけないこと(障害のある人が目の前にいるにもかかわらず、その隣にいる人と障害のある人「について」話す、あるいは障害のある人「のために」話す)

などなど。

エイブリズムというものは、障害者とのコミュニケーションを取ろうとしたり理解しようとしたり⑤⑥、記事等に積極的に触れたり③④するプロセスにおいて、実に巧妙に入り込んできます。

熊谷 晋一郎先生の記事

エイブリズムについて調べていたところ、当事者研究で知られている熊谷 晋一郎先生の記事にたどり着いて、非常に学びが大きかったので、リンクをはります。

トップアスリートの知られざる困難 | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

車いすマラソンでパラリンピックに2大会出場した花岡伸和氏は、スポーツには能力主義的な側面があり、パラリンピアンのイメージ、できなかったことを克服し身体機能を最大限に生かし勝利を目指す聖人のイメージが、障害者のイメージとして定着することの危険性についても警鐘を鳴らしてくださっています。

シホっぴ
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↓では、訳に入っていきます。今回は、少々込み入った内容になるので、語弊誤解のないように、最後まで読んでいただけると幸いです。

Here’s what to say and not to say when discussing disability 訳

Avoid inspirational narratives

いわゆる鼓舞する物語風、インスピレーショナルな叙述的な表現を避けるべし

Inspirational narratives of disability are directly tied to a term called “inspiration porn.” Coined by activist Stella Young, inspiration porn is defined as “objectifying disabled people for the benefit of nondisabled people.”

インスピレーション調で障害について語ることは、いわゆるインスピレーションポルノ、障害ポルノ、という、ステラヤングさんという活動家の方が作った造語ですが、それに直結します。

障害のある人を障害のない人にとって都合のいいように客体化してしまう、という現象のことを指しています。

McDonnell-Horita said an example of inspiration porn is the viral videos that get spread around prom season of a high school football player asking a girl with Down syndrome to prom. Being asked to prom is something that almost everyone wants, she said. But videos of disabled people getting asked to prom get amplified because society perceives disabled people as pitiable and “unlovable.” This is just one example of how inspiration porn degrades, exploits and others disabled people.

マクドネルは障害ポルノの例として、高校のプロム(ダンスパーティ)の時期にバズる動画、高校のアメフト部の男子がダウン症候群の女の子を誘う、なんていう動画を挙げています。

プロムに誘われるというのは誰もが求めている嬉しいものですよね。

障害のある人がプロムに誘われるビデオが(夕方のニュースで取り上げられたり)拡散するのってなぜでしょうか。

社会が障害のある人を不憫に、本来は愛されないものだ、と受け止めている、という前提がやもするとあるからではないでしょうか。

これは障害ポルノ(美談、美しく切り取られたように思うもの)が、どのように逆に障害のある人を格下げし、食い物にするか、という一例です。

“It’s really dangerous to have that be the trope because then it really limits and continues to infantilize disabled people and their potential,” McDonnell-Horita said. “It’s very patronizing, and it only continues to other disabled people, as if they don’t deserve to have access to regular life milestones that other young people have.”

こういったよくある常套手段というか、こういったビデオが拡散することなども例ですが、これって危険をはらんでいるんです。

障害のある人そのもの、またその人の潜在的に備わった能力を、制限する、子供扱いすることに寄与してしまうのです。

(プロムにさそわれることを美談のように描いて健常者の都合のいいように障害者の物語を造る、そのように切り取られた部分が共通理解として拡散することは)後援しているような、庇護者ぶっているようでありながら、実は、まるで障害のある人が、他の若い人達が経験する普通の人生の到達点一つ一つを味わうことがない、という誤った価値観を、潜在的に刷り込んでしまうかもしれません。

Another example of inspiration porn is videos of disabled people standing up out of their wheelchair at a wedding. This directly ties into the “overcoming disability” narrative. Reedy points out that these tropes come back to disabilities being seen as a deficiency and that they serve to dehumanize disabled people.

他の例としては、結婚式に参加している障害のある人が車いすから立ち上がる、こういったシーンも美しいお話として切り取られることがありますよね。

これは、実は障害というのは、克服するものである、というメッセージを発してしまいます。

このようなよくあるテーマがもたらす弊害としては、障害とは何かが欠如していて欠陥があることである、というレッテルをはり、障害のある人の没個性、人間性を失わせることに寄与してしまいうるのです。

McDonnell-Horita said that her disability identity isn’t something she has had to overcome. Instead, she has had to overcome the shame she was taught to feel about herself as a disabled person, ignorant questions that people ask her and the systemic ableism that keeps disabled people out of certain spaces. “It’s not really necessarily my disability that I’ve had to overcome. It’s the negative attitudes and stereotypes that come with being a disabled person. That is more exhausting,” said McDonnell-Horita.

障害があるというアイデンティティ自体は克服しないといけないことではありません。

そうではなくて、自分自身を障害のある人として恥じるように教えられたことこそが克服するべきことなのです。

障害のある人を一定の場所から消し去るような無知な質問、巧妙に組み込まれたエイブリズム、ネガティブな態度やステレオタイプ、そういったことが克服するべきことです。

Reedy said that most of the time, it isn’t a person’s disability holding them back, but rather barriers such as inaccessibility and lack of accommodations. 

たいていの場合、障害のある人の障害そのもの、がバリアになる、というよりも、むしろ、交通機関・公共施設等側にアクセス、障害者に対応できるような作りができていないこと、のほうが問題です。

“If you’re still writing stories about inspirational people and disability and not really digging into the barriers, then you’re creating — and this is going to sound extreme, but — you’re creating violence.” Reedy said.

障害のある人にインスパイアされた、とお話を書いているのにもかかわらず、実際にバリアを取り除くようなアクションを起こせていないのであれば、ちょっと大げさに聞こえるかと思いますが、それって、暴力です。

Disability is not a monolith and shouldn’t be treated as such

Within the disability community, there are several subcommunities that have a wide range of experiences and subcultures. Disability isn’t a monolith, and it’s important to acknowledge that not everyone has the same experiences. If you have interviewed and spoken to one disabled person, that’s only one perspective in the whole community. 

障害って、モノリス、一枚岩ではないんです。

みんなが同じ経験をしているわけじゃないんだ、という前提を知ることはけっこう大事なことです。

障害者のコミュニティーのなかにもいくつものサブのコミュニティが存在してるんですよね。

もし一人のひとにインタビューをしたとしても、それってコミュニティ全体のなかのたったひとつの見方でしかないんですよね。

For example, McDonnell-Horita emphasized how person-first (“a woman with autism”) versus identity-first (“an autistic woman”) language preferences vary within subcultures and even from person to person. She points out how important it is to ask the person what their preferences are and to not make assumptions if you’re ever unsure.

Aside from language preferences, disability identity is a journey that is very individualized. It’s important to show the disabled experience from all sides.

たとえば、女性、その女性は自閉症があります、というのと、自閉症女性、という言い方、人が先に来るのか疾患が先にくるのか、こういった言葉の選び方も人によって好みが異なります。

その人その人が好む呼ばれ方がありますから、聞くことが大切です。

For instance, many individuals within the disability community emphasize the harm in writing stories about disabled people that frame them as being pitiable, unhappy or bitter all the time due to their disability. The same is true, however, for stories that center disabled people as being saint-like and positive all the time.

たとえば、障害について書くことによって、障害があること=かわいそうで不幸な人、という側面が強調されることの弊害について語られたりしますよね。

それもそうなんだけど、障害者を逆に聖人のような、いつもポジティブな頑張り屋さん、のような描き方も存在していたりします。

McDionnell-Horita pointed out that as a disabled person, there are days when she is frustrated when her body doesn’t cooperate with her. Similarly, she noted that many disabled people are also exhausted from experiencing two pandemics: living under a government and society that doesn’t care whether disabled people live or die, as well as constantly fighting against their rights being taken away.

障害のある人は、もちろん身体がいうことをきかないことで葛藤している日があります。

同じように、障害のある人の多くはまた、次のようなことも経験して疲弊しています:障害のある人の権利が取り上げられてしまうかもしれないという疑念と常に闘っていること、障害のある人が生きるか死ぬかということについて気にしていないような政府や社会のもと生きること。

Framing disabled people as being one or other — either happy all the time or bitter all the time — only further perpetuates the idea that the community is a monolith. 

障害のある人を常に極端ないずれか、純粋無垢で幸せそう、あるいは、悲壮で辛苦しい、のどちらかにあてはめようとしてくること、それは、障害者のコミュニティがモノリスだという誤った考えを人々に記憶させてしまいます。

The destructive nature of infantilization

McDonnell-Horita defines infantilization as a nondisabled person having more power than a disabled person and using that power against them to invalidate their thoughts, opinions or experiences. This can show up in numerous ways, such as indirectly speaking to a disabled person or assuming that the individual can’t advocate or speak for themselves.

マクドネルは、Infantilization=子供扱いすること、を、障害のない人が障害のある人よりも、パワーをもつ、障害のある人の考え、意見、経験を無効にすること、と定義しています。

いろいろな場面で現れます。たとえば障害のある人に直接話しかけないこともそのひとつです。その人がその人自身のために自己主張できない、と想定して接することは、エイブリズムのひとつです。

Reedy said that infantilization once again goes back to the constant perception that disabled people are less than. For example, Reedy said that as a dwarf, she has experienced situations in which people would raise their voice or speak to her as though she were a baby.

小人症の人は、人が声を高く大きくして赤ちゃんに話しかけるような話し方をされる、という経験をします。

これも、子供扱いですね。障害のある人のほうが劣っているという認識は誤っています。

Center disabled voices

Centering disabled voices is one of the best ways to avoid infantilization. Similar to how disabled people are spoken to indirectly in interpersonal settings because of infantilization, their voices are often excluded from articles and stories about disability issues. Reedy said she has seen journalists interview the parents of disabled people, or nondisabled people in organizations, over actual disabled people.

インファンタライゼーションを避けるのに良い方法としては、障害のある人当事者の声を中心にもってくることです。

子供扱いされる結果、記事やストーリーが当事者の声ではなく、周りの人の声を拾っている場合があるので。

ジャーナリストが本人ではなくて、その人をとりまく障害のない組織人や両親をインタビューしている様子をよく見ます。

Nondisabled people have no lived experience of disability and don’t understand it the way disabled people do. And often, with parents of disabled people, unless they’re disabled themselves, their first encounter with disability is when they have a disabled child. Reedy isn’t saying that parents of disabled people shouldn’t have input, but that it is infantilizing to step over an entire community of disabled people and go to them first.

障害のない人は障害のある経験を人生を生きたことはありませんから、障害のある人が障害を理解するようには決して同じようには理解できません。

障害のある人のご両親は、彼ら自身が障害者である場合を除いて、おそらく初めて障害と接するのは、ご自身の障害のあるお子さんを授かったときでしょう。

障害児を育てている人がものを言ってはいけない、と言っているわけではありませんが、障害のある人当事者たちのコミュニティを差し置いて、ご両親たちの声を拾うのは、(ご両親や介助者が代弁する声をまず拾い上げにいくという方法は、障害当事者たちの声を軽視している)インファンタライゼーション(infant=赤ちゃん、子供扱い、赤ちゃん扱い)であるということです。

“They have no lived experience — they don’t understand. And quite frankly, there is no way for you to completely understand how it is to live as a disabled person until you become disabled yourself. Because seeing it is very, very different from living it,” Reedy said.

生きた経験がない限りは理解は難しいでしょう。

率直に言って、障害のある人にならない限りは、障害のある人として生きるとはどういうことなのか、わかることはできないでしょう。

Recognize that disability is a culture and identity, not a problem

Disability is a cultural and social identity and should be recognized as such. But historically, disability has been seen through a medicalized lens.

障害というのは、個人の能力的問題というよりも、社会的文化的に形成されるアイデンティティとして捉えられるべきであるのだが、歴史的には障害は医学的にとらえられてきました。(個人の能力に帰結させ、医学的に治療対象と考える考え方)

The medical model is a biomedical perception of disability that supposes that disability may reduce one’s quality of life and that aims to correct or diminish it through medical intervention.

医学モデル、というのは、障害は生活の質を下げているもので、その人自身の問題ととらえ、直すべきもので、医学介入によって、障害を消し去る、普通になることを目指す、という考え方です。(例:麻痺のある人に能力以上のリハビリを一生懸命させて、全回復を目指す、など)

“The medical model says that disabled people have to be fixed, or there’s inherently something wrong with us, and there should be science and we should all aim to have a cure or live more ‘normal,'” said McDonnell-Horita.

While some aspects of the medical model are relevant and important to some disabled people’s lives, many critique the medical model as rooted in eugenics and anti-Blackness. It places expectations on what a perfect body looks like and emphasizes it as something that we should all be striving for.

もちろん、医学モデルも(医療の現場では治療が目的であるので)大事という側面もあるのですが、優生思想や反黒人などの考え方を助長すると批判されています。

完璧な身体とはどんなものであるのか、ということを植え付け、それをあたかも皆が目指していくべき姿なのである、という潮流を作ることになるからです。

Many disabled people subscribe to the social model of disability, which sees disability as the result of the interaction between people living with disabilities and an environment filled with physical, attitudinal, communication and social barriers. While it doesn’t deny the reality that comes with living with a disability or the impact it has on an individual, it emphasizes the need for social change in order to accommodate disabled people.

多くの障害者は、障害の「社会モデル」の考え方に同意しています。

社会モデルは、障害は社会環境等と個人の心身機能の障害があいまってつくりだされているものであり、その障壁を取り除くのは(障害のある人にとって暮らしやすい環境を整えることが)社会の責務である、社会全体の問題としてとらえる考え方です。

(たとえば、歩けない人が入りにくいお店があったときに、あなたの歩行能力の問題なので、手術とリハビリを頑張って(=治療して治してしかるべきもの)“普通”に歩けるようになったら来たら?と個人の能力の問題ととらえるのが医学モデルで、スロープがない事業者側が困りごとを作り出している、多様性を想像しきれていない、ニーズにこたえられていないのは社会問題である、と考えるのが社会モデルですね。)

McDonnell-Horita said that unlearning ableism and omitting harmful words that are embedded in our language take practice and commitment; it’s important for nondisabled people to be involved in this work. Resources such as the National Center on Disability and Journalism’s Disability Language Style Guide and activist Lydia X. Z. Brown’s glossary of ableist language are easily accessible online to help people in the learning and unlearning process.

“It takes the weight and the burden off of disabled people to have to do the work every day if we can have more people who understand why the language can be harmful and more people interrupting ableist conversations or even ableist thinking,” said McDonnell-Horita.

周到に言語に埋め込まれた既得のエイブリズムを意識的に捨てて学びなおすためには、積極的に取り組む姿勢が必要です。

障害のない人がこのエイブリズムをunlearn捨てる、ことにかかわることがとても大切です。

言葉が剣になることを知っている人、エイブリズム的な会話や考え方を認知し都度疑義を呈することができる人が増えることで、障害のある人の背負う重荷をおろしてあげることができます。

“When we talk about disability, it’s important to not just think about those that are visible, but also nonvisible disabilities and those communities who have historically been marginalized and left out,” said McDonnell-Horita.

また、障害について話すときは、目に見える障害ばかりでなく、見えにくい障害についても考えるべきです。コミュニティーが歴史的に疎外し軽んじてきた障害です。

(以下、米国内特有のデータが続くため、略)

この記事では、LGBTQ性的マイノリティの方が不当に社会から扱われてきたことについても触れられていて、貧困と人種差別についても障害を話すときには一緒に考える必要がある、という点についても触れられています。

シホっぴから一言

生きにくさを感じている人は、たくさんいると思います。

社会モデルの考え方では、障害や不利益、困難の原因は、目が見えない、足が動かせないなどの個人の心身機能が原因であるとは考えません

障害や不利益、困難の原因は、障害のない人を前提に作られた社会の作りや仕組みが問題であると考えます。

マジョリティの都合で作られているためにマイノリティが不利益を被っている、その不均衡が障害を生み出している、と考えます。

障害の社会モデルについて考えるときに、私は、駅にエレベーターができたときの話が大好きです。

シホっぴ
シホっぴ
昔はエレベーターが設置されている駅なんてほとんどありませんでした。

いまでは、エレベーターがない駅は首都圏ではほとんどみなくなりました。私の地元の駅にも、いつの間にか、エレベーターができました

電車に乗って出かけたい、エレベーターを設置してほしい、という車いすユーザーの方たちのムーヴメントを知っているでしょうか。

誰もが、そんなことできるわけがないとはじめは思ったかもしれません。

いまでは、海外旅行の大荷物を押している人、ベビーカーを押している人、高齢者の方、多くの人が助かっています。

ベビーカーで出かけるときに、エレベーターの設置がある駅かどうか、というのは、大事ですが、いまは気にするまでもなく、当たり前に設置してある駅が多くなりました

少し前まで、スーツケースを持ちましょうか、とか、ベビーカーを一緒に運びましょうか、と、毎度大変な思いをしていましたよね。

シホっぴ
シホっぴ
エレベーターがほしい!と強く思ってムーヴメントを起こしたのは、車いすユーザーの方たちです。

壮絶な闘いだったことでしょう。その恩恵を、今では社会全体が享受しているのです。

ダイバーシティ多様な考え方に、多様なニーズに、対応できる社会に変わっていけたらいいな。

ひとりひとりのマインドが変わっていけたらいいな。

財政を十分に福祉にまわせるような豊かな国でありつづけることも大切であるな、と、未来に思いをはせました。

今回は、エイブリズムが巧妙に入り込んでくることがあるし、障害のある人のことは、you can only imagine 想像することしかできないけれど、気が付いたときに、エイブリズムについてunlearnしていくことが大切であり、当事者たちの声を最も傾聴していく必要がある、という記事を一緒に読み、障害の医学モデルと社会モデルについても触れました。

シホっぴ
シホっぴ
最後にひとこと(ふたこと?)。

Using your knowledge and information about special needs in service to the world

私が獲得してきたスペシャルニーズについての情報や知識を世界のために役立てる。

Every child has a song inside. It’s out job to turn up the volume. 

Nancykopman.com

一人一人の子供が内なる声を持っている。私たちの仕事は、その歌声がしっかり聞き届けられるように、ボリュームを上げてあげることだ。

声を出せる人が出そう!障害児の家族たちは、30代40代の元気な時期に、様々なことに気がつくきっかけが与えられています。

だから、声なき声を拾い上げる、社会に聞き届けられるように、チューニングする、そんなお役割も担っている気がしています。

ではでは。

NHK福祉情報サイト

https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/108/
東京パラリンピックを前に “能力主義”とどう付き合うか