障害受容×言葉の紹介38
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原家族(自分が生まれ育った家族、親兄弟)への説明
産後、生まれたばかりの娘の状況理解に母親として全力で努めていた私。
医師に言われた言葉一つ一つを咀嚼しながら、しなくてはいけないことがありました。
それは、これです。
実に多くのことが、というか、何一つ、のほうが正しいでしょうか、何も、わからない中、先が見えない中、(赤ちゃんから見た)祖父母(つまり私の両親、夫の両親)をはじめとする原家族(自分が生まれ育った家族、親兄弟)への説明をしなくてはいけなかった。
聞くに堪えないような内容を自分なりに理解に努め、理解したとも言えない・信じられないような内容を、説明しなくちゃいけない。
障害児ファミリーの多くが共感していただけると思います。
説明をすれば、いくつかの質問が続きます。
- 何の病気なのか。
- どんな検査をして、どんな結果なのか。
- いつ退院になるのか。
- どういった状況なのか。
不確定要素だらけの不安しかない日々の中、まだ会えぬ孫について聞く祖父母。
私は説明者として適格者でありたいのに、分からない日々。分からないなりに、質問を受ける役割を果たそうとしていました。
こんな風に言われたから、こんなところじゃないか、とか、こんな風に言われたけど、なんともいえないかもしれない、とか。
分からないけど、赤ちゃんは今日も可愛かった、とか、こればっかりは可哀そうだった、とか。そんなことを私はぶつぶつ言うのでした。
でも、私は説明するお役割を全うすることがしんどかった。
ゆりちゃんは、ちょっとしたことではないのがだんだんわかってきていましたから、安心させられるような言葉も出ませんでしたし、かといって診断名やらがついてくるのは数か月後のことですから、言葉を見失いました。
むろん明瞭に言語化してしまえば、それが決定事項のように頭の中を支配するだろうと思うと、むしろ何も言いたくなかった。
夫の家族はというと、傾聴上手で、質問もコメントもとても控え目でした。非常に優しかった。
ゆりちゃんが頑張っていること、医学の進歩のこと、なにより、しほちゃんよく休んでね、と。
少ない説明だろうと、深追いせず、ゆりちゃんが痛い思いをしたことには共感的で、未来については信じていると言い切ってくれて、不安な私に寄り添ってくれました。
それでも、何も言わないなんておかしいから、私が説明するしかなかった。
産後ですよ。苦しかったです。
実に歯切れが悪い受け答え、酷い記者会見みたいでした、答えが分からない、というのは人生初めてでした。
大切な人が毎日痛い目にあいながら頑張っている中、見通しについて言語化する作業は大変でした。
予想を下回ったり、上回ったりするのです。
何を信じて、どんな心づもりで会いに行ったらいいもんか、分からなくなりました。
その日どんな現実を突きつけられるかは、常に想定を外れました。NICUでのことを家族に対して適切に言語化しようとするのは、私のサービス精神からだったかと思うけれど、サービス精神を発揮している場合じゃないほど、とんでもないことが起きているのかもしれない。
そんなに律儀にすることもないか、なんてなんとなく思うようになって、わからないこともあるんだ、みたいな境地にだんだんなっていきました。
言葉に詰まったり、あんまりうまいこと言えなくても、まぁそれでいいか、と、混乱している状態を許しました。
家族も、私が答えを知っているものとして質問するのもなんだか違うし、私そのものが傷ついた状態であることを、実はかなり早い段階で認識して接していたらしい、ということも、かなり後になって知りました。
今日は、祖父母としては、この始まりがどんな経験だったんだろうということに思いを馳せながら、書いています。
妊娠中
妊娠中に時を戻しましょう。
「どっちに似ている子が出てくるかなぁ(パパ似?ママ似?)。」
妊娠を伝えた日も、胎動があると伝えた日も、心から喜んでくれました。目を細めて実に楽しみそうにしてくれました。夫婦になった二人を、家族になっていく二人を近くで応援してきてくれた両家の両親です。
もちろん孫に会うのを心待ちにしています。(ゆりちゃんは、私の両親にとっては、待望の初孫でした。)
そして出産。
ゆりちゃんが生まれる2015年。既にLINEがあって、家族ライングループ、というものがありました。
陣痛が始まったこと。
お産が時間がかかっているけど順調なこと。
そんなことを自分、あるいは、自分がいよいよしんどくなってきたら夫が、家族に逐一連絡しながらお産は進みました。
もちろん、昔は違うんでしょうけれども、これが私の知っているLINEを打ちながらのお産です。
孫に会いたい気持ちを高めてきた祖父母。祖父なんて、グランパ、と呼ばせる、なんて張り切っていました。
私の大きなお腹に、本気で、おーい、とか呼びかけていたんですから、本当に愛情深い人たちです。
“今から赤ちゃんは医療センターに搬送される”
驚きをもって伝えられました。
電話口でも、みるみる顔が曇っていくのを私は察してしまいました。深刻なことが起きている現実が可視化されるよう気がして、深刻な事実を言っている自分の口を顔ごと脱ぎ捨てたい気持ちがしました。
いくら子育てをした、人生経験を積んできた人生の先輩といえ、このような始まりは微塵も想像していなかったはずです。
私は第一子を30歳で出産しています。
ちなみに私は父が36歳の時の子どもです。父は、父の友人たちが孫フィーバー・孫自慢で浮かれている様子をかねてから見ています。
初孫の誕生を控え、フィーバーの渦中の仲間に合流するのを心待ちにしていたのではないかと思います。グランパになる、とはしゃいでいた父。
祖父母にとってのこの経験って。祖父母にとって、障害の重い孫を持つことの意味合いって。私の両親にとって、私が障害児を育てることになったことって。
0歳児のうちだったかとは思いますが、こんなことがありました。
患者家族会の先輩メンバーが言いました。
「しほちゃんのことを心配しているんだよ、親御さんは」と。
ゆりちゃんを心配して、人に話を聞かせてくださいと会いに行ったり、英語を読んだりして情報を集めて先生に質問したりしているしほちゃん。
自分は自分の親にとっての子どもだということ。その点を指摘され、初めての感覚に包み込まれていきました。私って、ゆりちゃんのように大切に思われる、そんな存在なの?
そして、あとから気が付くのでした。
- 娘の出産を無事に見届けること。
- 普通のおじいちゃんになること。
- 普通のおばあちゃんになること。
- かわいい赤ちゃんを抱いて産院を退院する娘を見ること。
これらは、私の父・母が思い描いていた体験です。私がお母さんになることを楽しみに過ごしたように、祖父母も、祖父母になるのを楽しみに過ごしていたのですから、当然、ゆりちゃんの誕生と搬送と診断などの一連のそれは、それらの普通の体験の喪失を意味していたのだと思います。
その始まりは普通とは違った
私にとっての初めてお母さんになった日は、私の父にとって初めて、じぃじになった日。
私の母にとって、初めて、ばぁばになった日。そして、その始まりは普通とは違った。
もちろん、NICU通いの日々を送る私に、赤ちゃんの状態に関する質問もしていたと思うけれど、それ以上に、私が休めているか、とか、ごはんの心配とか、実にいろんな言葉をかけてもらっていたような気もします。
私といえば、夢中で友梨ちゃんに起きている数々のことを捉えることに全てを注いでいたので、私の両親・義理の両親が私たち夫婦のことを心配している、とかそんなことは驚くほど一切気が付かないで長いこと過ごしていました。
あまりにも必死なもんで、親からの愛情を受け取るレセプターが鈍ってしまって、気がついたら、疲弊しきっていたように思います。
両親・義両親から注がれていた優しいまなざし、愛情について意識することになったのは、だいぶ後でした。人に指摘されてから、あぁそうか、という感じでした。
障害児の母親業って、実にたくさんの心配事に支配されちゃう。想像するよりずっとずっといろんなことがあるから。近くにいてもみえないくらいいろんなことがあるんだもの。
こちらの論文では、重症心身障害児の祖父母の機能について書かれています。
重症心身障害児の母親として感じていることと、ずれがないです。祖父母には、母親の息抜きの相手、情報の提供、精神的サポート、兄弟児の送迎などのサポート、家事のサポート、など医療とは別のことで期待できる役割がありそうです。
また、医療的ケアの部分は、ちょっと難しい、ということが多いかもしれませんが、退院支援・手技の指導を拡大家族(祖父母)の範囲までやる、などは児の安全性を高めるために、とてもいいことだと思います。
なお、誇らしいことに、アイカルディ症候群家族会には、毎回祖父母の積極的参加が見られます。
大阪医科大学看護研究雑誌 第 8 巻(2018 年 3 月) 【資 料】重症心身障がい児の家族研究にみる祖父母の機能に関する文献レビュー
09_1.pdf (ompu.ac.jp)
あの日、おじいちゃん、おばあちゃんになった、お父さん、お母さん。
こうしていうのもおかしいかもしれないけれど、今一度、あなたの“娘”に話しかけてあげて。“娘”の苦労をねぎらってあげて。がんばってるねぇ、って。
祖父母になって間もなく訪れたあの日、どんなにか、“赤ちゃん”に加えて“娘”が心配だったか。そう、あの日の喪失体験について語ろう。それから、その衝撃を乗り越えるくらい今幸せなことも話そう。
- 障害があってもなくても等しく孫は可愛いものですか。
- 孫の調子がいいと嬉しいものですか。
- 障害のある子どもを育てている娘さんは、お母さんお父さんの眼にどう映っていますか。
すぐに心配事におそわれちゃう日々でも、自分が愛されて生まれたんだっていうことへの確信を持つことこそがきっと心を支えるから。
どんな壁も乗り越えられる力になるから。だから、お母さんになったんだね、あなたは幸せね、あなたを産んでお母さんは幸せだよ、って言ってもらってもいいですか。
どんな壁も乗り越えられる力
ひとつ、こちらの英語の文章を紹介したいと思います。(引用@livingfullaftered)
チアリーダーのように、いつもそばで応援してくれるお母さんを想いながら、読んでいました。
Even though I’m a mom myself, my mom’s still the person I go to.
私も母親になったけど、いまも変わらず私は私の母をよりどころにしている。
I go to her when something good happens. She’s the first person I want to call with little or big news.
いいことがあったら、お母さんのところにいく。小さなことでも大ニュースでも、いつでもお母さんにまず電話したくなる。
I go to her for a shoulder to cry on.
泣きたいときもお母さんのところにいく。
I go to her when I’m in the car alone to talk about everything and nothing at all.
車を一人で運転しているときも、お母さんと、たわいのないことからなにからなにまでなんでもしゃべりたい。
I go to her to celebrate the ups because I know she’s celebrating with me.
いいことがあったら、おかあさんと祝いたい。おかあさんは一緒に喜んでくれるってわかっているから。
I go to her for comfort because her voice is sometimes the one thing in this world that can make everything seem okay.
慰めが必要な時もお母さんのところにいく。お母さんの声には、この世で唯一、何もかも大丈夫って思える、そういう力がある。
I go to her for advice, and she helps me find direction.
アドバイスももらいにいく。方向を見失ったら助けてくれるのがお母さん。
I go to her when one of my children has a hard day, and I need to vent.
私の子どものうちの一人がすごく大変な日をすごしたっていうときも、お母さんにきいてもらっている。吐き出さないといけないときやっぱりお母さんがいい。
Friends can come and go. They move away. We drift apart. They disappear.
But mom has always been there.
友達は変わりゆくけど、おかあさんはいつもそこにいる。
Having such a loving mother has shown me that I’ll always have someone who will be there for me no matter how difficult life gets.
こんなに愛情深いお母さんのもとに生まれたおかげで、どんなに人生がきつい局面でも、きっと必ず助けてくれる誰かが現れるんだろうな、っていう確信がもてるし。
And I hope to be that person for my children.
自分の子供達にとってのその存在であれたらいいな、って思ってる。
That person who they can rest in my care.
私がいることで私の子供達が安心して過ごせるといいなって。
Because they know my love’s constant so they can make mistakes and grow into the people they’re meant to become.
母親の愛情がとめどなく注がれると確信できれば、ミスをすることが怖くなくなるから、そこから学んで子供達それぞれがなるべき人になれると思うので。
And no matter how old they are, they can keep coming back for rest.
Because I want to be the person my children go to,always.
子供達が何歳になろうと、いつでもママのもとに帰って来てエネルギーをチャージする、そんなお母さんに私もなりたい。
全盲ピアニスト辻井伸行さんの言葉
最後は、先日、私の父と父の友人が、この言葉を耳にして、2人揃って即座に涙を流した、っていう場面が食事の席であったのを思い出したので、全盲のピアニスト辻井伸行さんのこちらの言葉で終えたいと思います。
もし目が見えたら、最初に見たいものは?
「僕は目が見えなくてもいいんだけど、もし一瞬だけでも目が見えるなら、お母さんの顔が見たい。」(ピアニスト 辻井伸行)
今日の記事の曲は、かりゆし58の「アンマー」です。
ではでは。