生活

アイカルディ症候群、認知について。 ゆりちゃんは一体どのくらい分かっているんですか?

認知についての質問→ ゆりちゃんは、一体どのくらい分かっているんですか?

生活×日常風景

シホっぴ
シホっぴ
読書の秋!ということで、今回は、おすすめの本についてご紹介します。

ゆりちゃんは、一体どのくらい分かっているんですか。

アイカルディ症候群、認知についての質問。

認知についての質問だ。

初めてこの類の質問をされたときを思い出す。

心臓がえぐられるような気持ちがする。

質問を飲み込んで、質問を反芻し、答えを見つけに思考をめぐらせた結果、適切な回答がすぐにできず、目を細めて無言になっていた。

Insufficientという単語が頭に浮かぶ。適当な解が見つからないというか、適切に答える力量・資質が自分に不足しているというか、そういった気持ちになる。

エイブリズム的な考えを持ち出せば、本人“について”、本人“抜きで”話しているこの状況は、本人を軽んじていませんか、ということにもなる。

なぜ本人に聞かないのか。もちろんそんな話はしない。

この質問を母親にすることそのもののいかんについては、もちろん一考ある。

シホっぴ
シホっぴ
ただ、この質問を地雷だと言って、こんな質問をするのは無礼な人だと突き放していきなり憤慨したりは、私はしない。

Benefit of the doubt

証拠不十分につき・この発言だけでは不確かであるから、質問者が善良であると解釈し、罰しない、よいように計らう、ことにしている。

まだ答えが分からないときは、答えない権利を使えばいい、黙っていればいいと思っている。何も分かっていないんじゃないか、と直接的に言われたわけでは全然ないので、憤ることでもない。

どちらかというと、どのようにゆりちゃんは気持ちを伝えたり、意志表示をしたりしているんだろう、という純粋な質問だと思っている。

こういった質問をすることそのものがタブーではないと思っている。

こういった質問をすることそのものがタブーではないと思っている。

どうしてこの人はこの質問をしたんだろう、って考えるようにしている。

興味がない、というのが一番悪いと思っていて、そもそも質問をしてもらうことというのは、基本的にありがたいことだと思っている。

ましな聞き方というのはあるのかもしれないけれど、別にある一定の聞いていい聞き方、があるわけではない。

そういうことをパトロールしだす世の中はなんだか息苦しい。

たとえばこの質問をしてくれた相手小さな子供だったと仮定する。

シホっぴ
シホっぴ
ゆりちゃんへの興味関心から無邪気にこの質問をしてくれたなら、私は嬉しいだろう。

だから、大人がこの質問をしたときも冷静に対応することがoptimal最適、fair妥当であると考えるようにする。

でも、私のこの質問への答えは、小さい子にこたえるならば、

「どうなんだろうね、どう思う?」

「わかっていると思うよ」

「そうだね、わかっているといいな」

そんな感じで、ただの希望的観測 wishful thinking というか、vague曖昧だ。

実際、質問者側も、この聞き方は大丈夫だったかどうか、よき聴き手になれたか、相手を苦しめなかったか、寄り添えたかどうか、いろいろとこの口をついて出た質問の後に長期にわたって考えを巡らせていることもある。

できれば、このセンシティブな質問が発せられたときの私の一瞬の、カンマ何秒の戸惑いと狼狽を覚えていてほしかったりする。

私は意外と大事なところで核心をついた質問を遠慮したりする。

知りたいことをダイレクトに質問する、というのが下手で、今もできなかったりしている

だから、こういった質問をしてもらったときに、少々慄くものの、質問ができる、っていうのは、すごく能力が高い人だなぁと感心している。

嫌な気持ちになる人も多いと思うのでなんともいえないが、私は、こちらが考える機会、好機ととらえていることが多い。

いったい認知機能はどうなっているのだろう。

今回は、私は、この質問をうけて、自分の考えの変化に気が付く、棚卸しする機会になった(前よりも、ずっともっと本人の認知機能が圧倒的に高いと確信して過ごしている)。

いったい認知機能はどうなっているのだろう、きっと多くの人は思っていて、でも直接そんなことを聞いてはいけないかなと思って、多くの人は聞かない。

知的好奇心が強い人が、こういった質問―ゆりちゃんってどのくらいわかっているんだろう―を繰り出すことが多い気がしている。

シホっぴ
シホっぴ
この質問に答えるのはすこし難しくて(本人ではないから、難しいのは当然か)何をどう伝えようかと頭が回転し始める。

でも、いつなんどきこの質問をされても、必ず言葉につまってきた。よくこんな風に返してきた。

「まぁ、そうですねぇ、本人が表出できるのは、ごく限られているのだけれど、できることは少ないかもしれないんだけれど・・・快・不快はすごくわかりやすく表してくれたりします。」

ちゃんと答えているようで全然答えになっていない。

言葉を濁す。そこで察しのいい人は、質問を続けないでくれるから。こちらも最後まで文章を完結しない。

より分かってもらいやすいような言い回しを選んだ自分に、相手の問いには直接答えられず、譲歩してしまった自分に落胆する。

私がゆりちゃんをunderestimate=過小評価しているような気に苛まれる。

そっとゆりちゃんに、解りやすさを優先した答えをしたことを謝る。

私は、ニコッと笑って、こう付け足す。まずは自分の気持ち。

「可愛くて、何も苦にならないんです。」

質問と関係のない飛躍した内容であるにもかかわらず、相手が優しいまなざしで応じてくれた場合には、安堵する。

多くのコミュニケーションが解釈・感覚に頼っていること、それが時に主観的ではあるものの、愛情をもって育てていること、が十分に分かってもらえている気がすれば、遠慮していた気持ちを少しずつ開示していく。

ゆりちゃんの代弁「けっこうわかっていますけど、わたしー」と、生まれたての赤ちゃんに、どの母親もがそうするように話しかけて、本人の気持ちをアテレコする。

相手が摩訶不思議な表情をせずに、この感覚的なこのコミュニケーションを是としてもらえると確信すると、やっぱりゆりちゃんを知ってほしくて、こういう。

「よく見ていて、よく分かっているんです。」などなどと。

質問者の目にどんな風に映るのだろうという気持ちは、もはやない。

シホっぴ
シホっぴ
こういったコミュニケーションは日常の随所にちりばめられている。

私は、実は、本当は、このように考えている。

毎日奇跡を見させてもらっている。

実は私はゆりちゃんはなんでも分かっていると疑いを持たないで生きている。

赤ちゃんからの答えを期待して話す人はいない。

0歳1ヵ月のあかちゃんに話しかけるときに、赤ちゃんからの答えを期待して話す人はいない。

0歳2ヵ月のあかちゃんにもみんなたくさんの言葉のシャワーをあびせている。

お風呂に入れたら、気持ちいいね、と話しかけて、泣いていればお腹がすいているんだね、と、そのサインを見逃さず言語化する。

赤ちゃんの脳にシナプスが張り巡らされていくのを助けようと、まわりで起きている事象について何から何まで話しかける。

0歳4ヵ月のあかちゃんが、すこしニコッとして声を出した日には、みんなで目を丸くして、あかちゃんがしゃべった、と喜び称えあうでしょう。

ゆりちゃんに、外の空気が冷えてきたね、とか、にぎやかなところにきて楽しいね、とか、話すのは当たり前でしょう。

シホっぴ
シホっぴ
わかっているか、わかっていないか、そんなことをあかちゃんを抱えた母親に聞く人はいないでしょう。

愛情は伝わるでしょう。本人の表出がまだでも、いつか、「ねぇ、ママ」そう話しかけてくれるのを待っているのが母親でしょう。

ある日、不自由な身体から解放されて、思っていることを急に、そう、注がれた言葉がコップを満たして、あふれ出すみたいに、話し始める日が来たとする。

ゆりちゃんが、すっと立ち上がって、こう言う。

「ねぇ、ママ、全部、わかっていたよ。全部、聞いていたよ、見ていたよ」

ゆりちゃんは、不自由な身体のなかにトラップされていて表現する術がなくて絶望しているかもしれない、どうにか表現できればいいのにと、思っているのかもしれない。

実は、最近毎日このことを考えている。

ゴーストボーイという本。

そのように考えるきっかけになった本は、ゴーストボーイという本です。

原因不明の病にかかり、植物状態になってしまった少年。家族は絶望していました。

体が動かなくなって数年が経過したころ体は不自由なままなものの、意識が戻った、というのです。

そして、周りからは植物状態だと思われながら、実は意識がある状態で、10年もの月日が経過します。

そして、のちに、表現する術を得て、ずっと聞こえていたこと、ずっと分かっていたことを伝え始めるのです。

特に印象的なシーンは、お母さんが看護に疲れ果てた日に、(本人が聞こえていないだろうと思って)人生を絶望して本人に伝えた言葉を、聞こえていた、と言うシーンです。

◾️ゴーストボーイ日本語版

◾️ゴーストボーイ英語版

◾️ゴーストボーイNPRニュース記事&音声

Trapped In His Body For 12 Years, A Man Breaks Free : Shots – Health News : NPR

ゆりちゃんが、どこかの未来のある日に、すっと身体を起こして、お話をはじめたときに、ゆりちゃんって何を言うんだろうって考える。

私、本当にがんばったって言えるかな、って考える。しゅんくんに時間を割かないといけないときもあったね。ちょっとまっててねってしないといけないときがあったね。

シホっぴ
シホっぴ
ゆりちゃん、全部分かっている。なんて言うんだろう、と考え、涙が出てくる。

あれは嬉しかったよ、とかたくさん言ってもらえるようにしたいな、とぐっと腹に力がこもる。

全部分かっているっていうことを周りに伝えるのを恥じらっている自分を恥じる。

それも、ゆりちゃんは、見ているんだから、もっと堂々としないといけない。

よく聞こえていて、よくわかっていて、体だけが動かない。

この子は、すごくよく分かっているんですよ、って、まわりにもっと言いたい気持ちがあふれ出す。この子はどのくらいわかっているんですか、という質問にたじろいだことすら恥ずかしい。何もこわくないのではないか。答えは、わかっています、でいいのではないか。

同じ言葉を持たない人が下等であるわけない。

すこし違う仕組みで生きているだけ。優劣は、ない。

この子たちは、莫大な貢献をしていたりもする。新薬の治験に参加したり、データを提供したり。

あらゆる医学の恩恵を受けて生きているどの人も、この子たちに敬意を表するとよいと思っている。

この子たちの毎日の闘いが世の中を良くしていることに気が付かない人がいるならば、その人こそがignorant無知であると思っている。

クジラのこと。

また、ゆりちゃんのことを考えるときに、よく考えるのがクジラのこと。

こんなに大きな生物が海にいること、そのものがミステリアス。

海の中でこんなに大きな生物が生きている。そして、クジラは歌を歌っている。

神秘的なコミュニケーションをしていて、海の中で、仲間同士コミュニケーションをとっている。

クジラ語が文法を持つのか、AIを使って解読できるのか、という研究に取り組んでいる人たちがいる。

シホっぴ
シホっぴ
おそらく、クジラに言葉があることが分かってきている。

クジラの世界に深く潜り込んで、クジラのコミュニケーションを学ぼうと思う人がいること、そのものがなんだかIt is fascinating素敵だ。

英語が上手じゃないからって、英語圏の国にいって、何もわかってないみたいに扱われるって不当だよね。

ペンギンは飛べない鳥だけど、劣っているわけじゃないよね。海の中をあんなに泳ぐんだなんて、すごいよね。

シホっぴ
シホっぴ
私たちが魚だったら、ゆりちゃんは魚の世界にきた人間。

人間にシュノーケルのセットをあげたら、海で呼吸ができて、すなわち、魚の世界で過ごせるよね。

そんな感じで捉えている。ゆりちゃんに気管切開の呼吸のツールをあげたから楽に呼吸ができて、一緒に過ごせる。

ニーズが多い方が劣っているわけじゃないよね。

違う仕組みなんだ。

少しの工夫が必要なんだ。

異文化コミュニケーションの真髄なんだ。

ではでは。