障害受容×言葉の紹介16
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ファミリープラン(家族計画)というのは、それぞれが考えればいいことではあるのですが、予想に反して、重い障害のある子どもが1人目に生まれたときに、もともと考えていたプラン(例、子供は2人くらいがいい、とか、3人は産みたいなぁ)そういったプランに影響を与えるかな、と思います。
一人目が障害児で、もう一人子供を設けるか悩んでいる人へ
For any of you who have an only child with Aicardi syndrome and are wondering whether or not having another child is a good idea, I offer the following:
アイカルディ症候群の(重度心身障害のある、と読み替えていただいてOKです)子供をはじめに(一人目として)授かって、もう一人子供を産もうか迷っている人へ
Hannah was our first child.
We later went on to have two healthy sons in the next six years.
ハンナは私たちの第一子でした。
そののち6年という時間が経過する中で、私たちはさらに2人の元気な男の子を授かりました。
Years ago at one of our conferences, a new mother of a first-born with Aicardi syndrome stood up and asked if she and her husband should ever consider having more children.
数年前の患者家族会でのことです。アイカルディ症候群の子供を第一子として授かった新しいママが立ち上がって質問しました。
私たち夫婦はこの子に兄弟を作ってあげることを検討するべきかどうかと。
I answered that when we had only Hannah, we had a “handicapped” family filled with doctors, therapists, and all of the things written about in this article.
こう答えました、ハンナだけど暮らしていた時は、‘ハンディキャップの’家族でした、医者とセラピストとそう、この記事に書かれているような事柄すべてで毎日が埋め尽くされているような、ザ・障害児ファミリーでした。
Our world revolved around what was “wrong” with our daughter and we worked hard to assure that she had every possible experience to try to maximize her yet-to-be-determined potential.
私たちの世界線は、娘の何が‘悪くて’、どのように彼女の‘まだ見ぬ可能性’を押し広げることができるか、そう、(治してあげる、という前提があるというか)可能な限りの経験をし尽くしてあげることに躍起になる、そういった世界線で生きていたのです。
When we had our second child who was healthy, we found that our family transformed from a “handicapped” family into a “typical” family of which Hannah was a part.
しかし、2人目がうまれて、私たち家族は、障害児ファミリーから、‘ティピカルな’ありふれた家族にかわりました。ハンナが担う部分は、そのごく普通の家族の一部に変わりました。
We still had all of the components that we had before, but her disabilities no longer took center stage.
もちろん、2人目がうまれたからといって、いままでの生活を構成してきた要素が変わるというわけではないんです。
ハンナのためにしてきたことやその人間関係は引き続き継続しているんです。
ただ、娘の障害が、センターステージを占める、ということは終わったんです。
Her needs and the needs of her brother held equal importance in our family.
Our parenting styles and experiences became both typical and atypical.
彼女のニーズも、彼女の弟たちのニーズも、両方ともが同じ重要性を持つようになりました。
子育てスタイルもあらゆる経験も、ごく一般的な部分と、そうではない特殊な部分、両方が併存するようになりました。
Hannah had to learn to share our time, like any child with a sibling, and we had to learn the dance of parenting children with very different needs.
ハンナは、弟ができて、パパとママはお姉ちゃんだけのために時間を割けない、私たちの限りある時間は、ハンナ以外の子供のためにもシェアしなければならないということを学びました。
ごく普通のお兄ちゃんお姉ちゃんが我慢するみたいに、です。
そして両親としては、それぞれの子供を、違ったニーズのあるそれぞれの子供を育てる、という子育ての真髄ともいえる慌ただしく日常を疾走(ダンス)する感じも学びました。(learn the “dance” of parenting、って素敵な表現ですね。)
Families come in many different packages with one being no better than another, but for us, the addition of our sons centered ours. Of course, having more children is a huge decision and responsibility, but I can attest to it working well for my family.
もちろん、家族のカタチというのはいろいろあって、どういうのがいいとか、どっちが優れているとかはありません。
もちろん、子供を設けることは大きな決断で責任感を伴います。
私としては、第一子に障害児を授かったけれど、そのあとに2人の息子を加えて迎え入れることができたことは、私たち家族にとってはworked well良かったと、誓って言えます。
シホっぴから一言
2人産み終わっていて、3人目が障害の重い子どもです、のようなケース
2人産み終わっていて、3人目が障害の重い子どもです、のようなケースだったときは、お兄ちゃんお姉ちゃんたちに生まれてきた赤ちゃんのことを伝えて、家族一丸となって、蝶よ花よとスペシャルに生まれた子を愛でながら育てることができます。
上の2人は協力しあいながら、3人目の子について話し合う友人にもなれるし、十分に理解を深めることができて、3人目を可愛がってくれるかなと思います。
1人目が健常児で2人目に思いがけず障害の重い子を産んだ時はどうでしょうか。
1人目の子の気持ちのケアにも時間が割かれるだろうと思っています。
なぜならば、
- 1人目の子供は、そもそもママを下の子にとられたような感覚があって赤ちゃん返りをするものかと思うけれど、更に普通の場合と異なってくる。
- 下の子の医療ケアに相当な時間が割かれ続けてしまう可能性があるということを知ることになる。
- 下の子が普通成長を遂げていかないときに、小さいなりに心に描いていた、お兄ちゃんになる、お姉ちゃんになる、という夢が(楽しみにしていた子ほどに)typicalな、典型的な形でおとずれないという事実にも直面する。
- お母さんは、下の子の障害児コミュニティで情報収集をしたり、一生懸命に療育やリハビリをする。
そんなとき、上の子は、障害児コミュニティではない、普通の学校に幼稚園に行く生活が続くわけです。
上の子は、そういった、障害のある子どもと関係のないそれまでに所属していた場所に顔を出し続けながら、特殊なことが起きた事実と折りあっていかなければなりません。
幼い兄弟児は、自分では、家で起きていること(病院にたくさんいって、在宅で看護をしている)を想像してもらえる相手とは出会えません。
そこで親は同じような境遇の兄弟児と出会える機会を兄弟のために積極的に作ってあげる必要があると思っています。
こういったときに、病児に起きていることを兄弟児にも共有してあげるか、蚊帳の外にしないか、ということが大切になってくるかもしれません。
たくさんのことを伝えることで、期待されていると感じさせてしまうかもしれないので、プレッシャーに感じさせないように、という配慮も必要でしょう。
でも、何も知らない、はよくないでしょう。
障害のある子どもがいる、第一子が障害児、というコンディション下において、下の子を作る、はどうでしょう。
では、障害のある子どもがいる、第一子が障害児、というコンディション下において、下の子を作る、はどうでしょう。
障害がある上の子がいると知っていながら、子供をつくるということは、どう思いますか。
のちに、世話をさせる要員として生まれたのではないかという恨みを買うでしょうか。
自分の結婚のときに上の兄姉の存在が邪魔になると恨みを買うでしょうか。
下の子はいじめられるでしょうか。
兄弟児たちは思春期に差し掛かった時、子供の頃の思い出をどのように語るでしょうか。
自主的に医療職を目指す子もあれば、関係ない道を目指す、という子もいるでしょう。
病児と自分の同一視などが起きる場合もあるでしょうし、自分だけができて病児にできないことがあるときに自分の能力を出し切ることに罪悪感を感じてしまう兄弟児もいるでしょう。
上の子の能力を上回る逆転現象が起きてきます。
普通の家庭でもそれはおきます。
下の子を作らない、と決めることもいいでしょう。
もう一人にも何かがあったらという不安が拭えない、もし下の子にもなにかがあったらどうしよう、という不確定要素は大変な不安を感じます。
上の子を守れないのではないか、あるいは自分の心がついていけないのではないか、という思いも共感できます。
第一子の出産年齢もあるでしょう。そもそものファミリープランもあるでしょう。
それでも、もう一人を作る、もいいでしょう。
兄弟が広げてくれる世界を見てみたい気持ちが強ければ、そうしたらいいでしょう。
親なき後について思いをめぐらし、あと1人ではなくて、1人産むと決めるなら、1人ではなくて2人は兄弟を作ってあげることが正しいのではないか、という議論を交わす夫婦も多いでしょう。
(実は私の家族が今直面している悩みは、ここです。)
どんなパターンだとしても
どんなパターンだとしても、ファミリープランについて、未来について、真摯に考える夫婦の時間をどの障害児家族ももつことになるでしょう。
住まいや働き方についての考え方だって変わってくるものです。
我が家では、ゆりちゃんには兄弟がいる方がいいのではないか、と2人目を決断しました。
Pamの言っていることはあっていました。
新しい世界が広がりました。(スケジューリングからなにから手に負えていない部分ばかりで、いっぱいいっぱいですが)結果としては、私たちにとっては、とてもよい決断だったと思っています。
ここからは、少ししんどい内容を書きます
出生前診断をするのかどうか
我が家では2人目を産むにあたり、出生前診断をするのかどうか、という苦しい議論もしました。
夫はもう一人障害のある子どもを育てることはできない、といい、検査をしたがりました。
私は、検査はしません、と言いました。お互い一歩も譲りませんでした。
療育園のお友達たちを見てごらんなさい、と言いました。
アイカルディ症候群は出生前診断では見つかりません。
ちなみに、アイカルディ症候群は出生前診断では見つかりません。
と、同様に、OOちゃんの疾患も見つかりません。
ほとんどの子たちの疾患が見つかりません。
どうして、トリソミーちゃんとダウンちゃんだけをdetect検知できる検査なんかをする必要があるのでしょうか、と。
ゆりちゃんと生きてきて、いかに障害というものが多様かということを理解できないのかと、憤慨しました。
先天性の障害者と途中障害の人の割合を理解していますか
そもそも、先天性の障害者と途中障害の人の割合を理解していますか、と言いました。
圧倒的に途中障害の方が多いです。人生は何が起きるか分かりません。何を恐れているのでしょうか。なんのリスクを回避しようとしているのでしょうか。
とりわけ、OOちゃんは本当に可愛いですよね。
選ばれてその子のお母さんになりたいほどの可愛さです。クラスメイトに到底言えないです、恥ずかしいです、信じられないです、と怒っていました。
検査が大丈夫だったから産む、というコンディション付きにしたくない
検査が大丈夫だったから産む、というコンディション付きにしたくない、といいました。
それでは、病児を否定しながら生きていることになるのではないかと。検査にひっかかったら産まない、というのは、まったく解せなく、腹が立って仕方なかったです。
くだらない出費ですね、旅行に行くほうがいいですね、と、夫を詰りました。
夫が1ミリも譲らなかったので
夫が1ミリも譲らなかったので(私の産後のメンタリティを心配している、ということでした)、本当にくだらない出費ですね、と皮肉を吐きながら、銀座で英国の会社の採血の出生前検査を受けています。
(この時点で、私はダウンちゃんやトリソミーちゃんと出ても、偽陽性の可能性が全く拭えない<私はProbability確率論が専攻でした>ので、産みますからね、と言っています。
ただし、陰性である限りは妊娠の継続で同意、という同じ方向を見れるので、たいていの場合のことが起きるだろうという予測のもと、<つまり、陽性が出た場合のconsequencesについては割れた状態no consensusのままで>採血されにいきました。
陽性になったら産まない、陰性だから産める、ではない
陽性になったら産まない、陰性だから産める、ではないですよ、と言いました。
陽性というのは、家族会に早期に辿り着いて必要な情報を収集することができる、妊娠中から備える、という意味ですよ、と言いながら。(検査によって性別が分かるのですが、それについての倫理については特に何も思わないのですが)
性別が分かると、男の子ないし女の子のお洋服を妊娠中から準備をすることができるんですよね。
なので、それと同じ理解で受けますよ、と言いました。
陰性の通知を見ても、一つもほっとしません
そもそも、陰性の通知を見ても、一つもほっとしませんよ、とも言いました。あまりにも検知できる疾患が少なすぎるのです。
高額支払いを厭わない、ハイリスクな年齢に差し掛かっている、海外でも普通にやっているらしいしアリかな、夫が強く希望、のような場合、本当にこれは自由なことなので、払ってやったらいいと思っています。
これに関して友人が行う自由選択については、フラットな気持ちです。
陽性でした、おろします
つまり、まったくこの検査の倫理、確からしさ、について1回も何も考えることなく、普通に採血されにいって陽性でした、おろします、っていう人がいるのかなと思うと、悲しくなるのです。
どんな理由の堕胎であれ、女性にとって子供をおろすということの心理的負担は、大きいです。
40歳前後での妊娠
40歳前後での妊娠も、陽性だとして堕胎するときめれば、心理的負担は大きいでしょう。
陰性だけど、なんともいえないけど、なんか“ちょっと安心”したけど、この結果の“確からしさ”については、なんともいえないよね、という、“なんっともいえない気持ち”になって、性別が知れたことがメリットでした、となる方が大半なのではないかと思っています。
100%の安心
で、結局、そんな100%の安心を与えてくれるでもなく、大して不安をぬぐうことができるのでもない、そんなおみくじを20万円で引くことの意味ってなんだろうか、と思ってしまうのです。
障害児は多様です。
出生時のトラブル(低酸素脳症など)は順調な妊娠でも起きます。検知できません。
なので、妊娠中に無理(な旅行など病院に搬送不可能な状況を避ける)をしない、NICUに即搬送できる産院を選ぶ、とかのほうが得策ではないでしょうか。
(ちなみに、堕胎についての私のスタンスですが、米国でのabortionの禁止について、私は憤っています。レイプや近親相姦、ティーンエイジャーの妊娠は女性のその後のキャリア、教育、生涯獲得収入、人生に影響を及ぼすので、堕胎する自由が奪われることはおかしいと考えます。)
私の話。
さて、私の話。
夫とゆりちゃんとその場所に行ったのですが、寿司詰めの待合室。流れ作業。
この人達は、障害のある子どもを産みたくない一心で高額を払う人たちなのか、と、憎悪の気持ちで過ごしました。
採血なので、侵襲性=おなかの子供への危険はありません。
その手軽さがあり、妊娠初期の不安な段階で検査をするかしないか悩むカップルが多くいます。
十分にその倫理性について議論がなされているとは思えない状態で、十分に結果を受けた後の意思決定に関するカウンセリング等がなされていない状態で、門戸が開かれています。
男性側が受けてほしい、と主張しているケースが私の印象では多いです。
選択肢が“ない”のは問題だと思うので、日本でも検査ができるのはありかなぁ、とも思います。
必要な検査であれば、mandatory強制でしょう。
が、必要な検査であれば、mandatory強制でしょう。
そうではないので、controversial 議論の余地のあることです。
私はこの検査を受けることを感情的に向き合うことが大変だったので、次の子供を考えるときには相談しに来てくださいねと言われていた、遺伝カウンセリングに足を運んでいます。
そして、みてください。
まさか、私が確率論のうんちくをのべていた私がこのような形で証明することになるとは思っていませんでした。
診断を‘無事’潜り抜けた私の第2子は、検査では分からない障害を持って生まれました。
小耳症という障害です。右耳が小さい上、聞こえません。
これを聞いて、何を思うでしょうか。
そういうことがあるから、次の子供を産まない、産めない、不安なんです、という障害児ファミリーがいていいと思います。
障害のある子どもを育てることは並大抵のことではないですから。
2人目にも珍しいことが起きた
2人目にも珍しいことが起きた、なにかがあった、という私のエピソードは印象的だろうと思います。
そうすると、1人なにかがあると、なんかあるのではないか、というステレオタイプを産んでしまいそうですね。
でも、それは否定させてください。どちらの障害も、孤発です。偶然です。私の引きが凄かっただけだと思います、笑。
2人目の子は現在4歳(2023年1月現在)
2人目の子は現在4歳(2023年1月現在)になりましたが、耳の障害のことなんか忘れるほどに、ザ・男の子育児の沼に私はいるのです。
ゆりちゃんという肢体不自由の重度障害児がいながら、元気すぎる男の子を私に授けた神様は私の何を試そうとしているのかわからないけれど、そんなことは、誰も予見することができなかったのです。
- ゆりちゃんが完璧な子供じゃないことを嘆いている日があるか?ないです。
- しゅんくんが完璧な子供じゃないことを嘆いている日があるか?ないです。
- しゅんくんが“完璧に元気すぎる”ことを嘆いている日があるか?あります。笑
憂いていることのほとんどは起こらない。
Just listen to your heart and celebrate your imperfectly perfect life!
ではでは。