生活

特別支援学校のPTA会長になりました。

特別支援学校のPTA会長になりました。

生活×日常風景

シホっぴ
シホっぴ
今回は、総会と理事会にて、状況に戸惑いながらも、ご挨拶させていただきましたこと(と話し切らなかったこと)をここに改めて書いてみたいと思います。

ご報告

そうなんです、タイトルの通りなのですが、今年度PTA会長になったのです。(なぜでしょう・・・と私が一番思っておりますが。)

先日の総会と理事会にて、状況に戸惑いながらも、ご挨拶させていただきました。本日は、そちらで話したこと(と話し切らなかったこと)をここに改めて書いてみたいと思います。

まずは、総会については、(ちょっと小声で)“無難バージョン”(!)なるものでご挨拶しました。

総会

このたび、令和7年度のPTA会長をつとめさせていただくことになりました、峯尾志穂と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

未熟ではございますが、子どもたちの学校生活がよりよいものになるよう、皆さまと協力しながら、できることを一つずつ丁寧に取り組んでまいりたいと思っております。

子どもたち一人ひとりの笑顔や成長が私たち保護者にとって何よりの励みです。学校とご家庭、地域をつなぐPTAの活動が、少しでも前向きで、楽しく、無理のない形で続けられるよう努めてまいります。

不慣れなことも多く、ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、どうか温かく見守っていただければ幸いです。そして、みなさまのお力を少しずつお借りしながら、誰もが安心して関われるPTAを、みなさんと一緒に作っていけたらと思っています。

どうぞ一年間、よろしくお願いいたします。

ご納得頂けるのか、いろいろと心配しながら作成したオーソドックスな挨拶です。

できるだけ参加されている保護者の方、ひとりひとりを見ながら、原稿をゆっくりと読みました。滞りなく会が終了しました。

総会は前会長の退任の挨拶などもありますし、形式面が整っている、無難な体裁、というのを大切にしていました。

理事会

同日、続いて開催された第一回理事会での挨拶でも、会長挨拶がございました。皆様のお役に立てるよう努めますね、という旨、総会挨拶と同じ(通り一遍の)内容を繰り返すという案もありました。しかし、みなさんと同じ一人の保護者であること、たまたま、なんでもない一人の保護者がこのお役割を受けることになった、ということを伝えよう、私の子供の様子などのエピソードを交えながら、会長になるにあたっての葛藤すら、お伝えしてみるべきだろうか、なんて考えていました。

葛藤については、どこまでありのままに伝えていいものなのか、迷うところでしたが、娘の状態などに関してはお伝えするほうが私の問題意識や関心が分かっていただきやすいだろうと思っていました。

学校という小さな社会、あくまで形式的に無難に終わらせるほうがいいのではないか、という小声の囁きが頭の中にありました。

自分らしさを曝け出すことのリスクを計算している自分がいて、どの程度の挨拶が相応しいだろうか、本当に直前一秒前まで悩んでいました。

結果としては、自分の言葉をその場で紡ぎ、ネガティブに偏らないよう配慮しつつも、ありのままのまっすぐな思いを一定程度伝えることにしました。

ぶっつけ本番というか、即興というか、原稿は手元にありましたが、見ないで思いつくままにお話させていただきました。

(英語で、そんな感じでpublic speakingする様子を表現するときは、off the cuffで(袖口を外すイメージ)話したよ、とか、I winged itとか言います。)

そのときに、言ったことを踏まえ、言いきれなかった細部を肉付けし、その名も“なんで私がよりによってPTA会長に・・・(sigh!←ちょっと溜息もでてしまいます)思いの丈バージョン”を書いてみますので、もしよろしかったらお付き合いください。

シホっぴ
シホっぴ
ちなみに、私は今回珍しくすごく緊張しました。緊張したことで、どんなにか自分が真剣なのか分かりました。このタイミングでこのお役割をいただくことの意味とは何だろうと考えていて、同時にどんなにか不安の中にいるのかを思い知りました。力不足かもしれないながらも、人の力になりたいと心から願っている、という点も、確認することができました

就学前の不安や期待、そして就学

(挨拶は以下の文章の短いバージョンとお考え下さい)

私の娘ですが、小学部4年生に在籍しています。

アイカルディ症候群という神経疾患を患っています。3歳の時に胃ろうの手術をしています。

小学校入学後、小学1年時の9月には、気管切開の手術をしています。日毎にてんかん発作のある子です。

段階的に医療的ケアが増えていったので、食形態のことですとか、いろいろなことを一通り経験してきたつもりです。

みなさんは越谷特別支援学校に入学を控えていた時期、どのようなことをお考えでしたか。

どんなことをしてもらえるんだろう。学校に入るとすごく成長が進むらしい。先生は熱心らしい。

どのようなことをしてもらえ“ない”んだろう。学校は病院とはちがうらしい。

どんなことを期待して、どんなことに不安を抱いていましたか。

入学時に抱えていた不安は現実のものとなりましたか。あるいは、時間の経過とともに、制度が変わり、いくつかのことは解決したのでしょうか。

私の娘は、通学バスにのれるのだろうか。酸素の流量は、苦しい時、変更してもらえるのだろうか。

(持続吸引っていうのが便利でちょうどよい仕事をするので体調を保つための相棒だったのですが)持続吸引は学校で使ってもらえるのだろうか。使えないのだろうか。

学校給食を胃ろうから注入してもらえるのだろうか。あるいはできないのだろうか。リハビリや通院は学校を休んでいくものなのか。

学校では、希望すると、歩行器にのる時間を作ってくれたりするらしい。へぇ、きっといろんなことをやってもらえるんだろうな。学校でできること・できないこと、すべてを不安に思っていました。不安のほうが上回っていました。

入学当初、エアウェイっていうのを使っていたんです。エアウェイは詰まったり抜けたりするものなのですが、あれがないとすぐに努力呼吸様になり苦しくなるんです。

でも、エアウェイが抜けても学校では“再挿入はしない”と聞きました。その時は母を呼んで帰宅だと。

連絡を受けて迎えに行くっていっても、家は10キロ離れています。私が下手な運転で10キロ車を走らせる間、娘には苦しめというのでしょうか。

あぁ、これは、私は付き添いをしなくちゃいけないんだな、すぐに察しました。付き添いをする人になるんだなと。付き添い生活が始まったわけです。

私の娘については、通学バスには乗れないことも分かりました。

毎朝、エアウェイが詰まって苦しくなったり、ぬけそうになったり、発作したり、片手で吸引したりしながら、慣れない運転で国道4号を大型運送トラックに囲まれながら、どこに車を寄せられるでもない一本道を自主送迎していました。

体力がない娘。入学後も長いこと放課後デイサービスの利用は始められませんでした。学校のあとにもう1カ所だなんて、ちょっと考えられないような体調でしたので。

順調には始まりませんでした。一緒に登校、学校付き添い、帰りも自分で車を走らせました。吸引をしながら。

通学、育児、ケア、過酷なスケジュール

3歳離れた息子もおります。(しゅんくんですね。)

娘を小学1年生にあげた年に、同時に、息子を幼稚園の年少さんにあげました。息子の幼稚園のお迎えが14時30分なんです。

よくばりなこと、ではないですね、極めて当然なことだと思いますけれども、息子にとっても、いいお母さんでありたい自分がいるんです。14時30分に迎えにいくのは、やっぱり私(ママ)がいいのではないか。

そこで、娘の昼食の注入後、そこそこに、後ろ髪引かれながら、頻繁に早退をするような生活をしていました。

ギリギリの時間を狙いがちな自分のせいで、幼稚園のお迎えに間にあったり、ちょっと間に合わなかったりしていました。間に合わないと胸がざわつきました。

迎えに行くと、正門の柵のところに園児たちが顔をだしています。ママの姿をさがしているんです。

ちょうど気温が上がってくる14時頃、越谷特別支援学校から帰ってくる30分間の運転で熱がこもって、体調が崩れつつある娘。一日の疲れでてんかん発作が今すぐにも起きそうな雰囲気。

娘の吸引をしてあげて、ほんのすこし、ちょっと待っててねと声をかけながら、車に残して、駐車場を離れます。なんでもないみたいに、両手を広げて息子を迎えるんです。必死でした。

息子が出てくるのが遅ければ、発作をしてやいないかと車と幼稚園の門をせわしなく1往復。あるいは2往復。娘を車において20メートル離れる自分を、これは逮捕ですかね、とドキドキしながら、責めます。息子を迎えると、息子の手をひき、急ぎ足で車にもどりました。

顔を知っているママさんに、やっほーと手を上げてぺこりと頭を下げられれば上出来。逃げるように幼稚園を去るのでした。

15時頃まで本当は特別支援学校にいたい、帰りの会まで過ごさせてあげたい。そんな日ももちろんでてきました。

ゆりちゃんと最後まで学校にいたら、しゅんくんのお迎えは間に合わない。下の子はお願いねと私の母に頼んだり、預かり保育を活用したり。私の母にも預かりの先生にも本当にお世話になりました。

毎朝の自立活動の身体の時間に間に合っていない、と娘の担任の先生から言われたこともありました。もうすこし早く登校できないものかと。

しゅんくんの幼稚園バスの朝の乗車が8時45分だったんです。息子をバスに乗せないと家を出られません。十分に2人のお母さんになれない自分に苦しみました。

特別支援学校がとても遠くにあるから。息子の朝の見送りも十分にやらずに、夫や私の母に代わってもらう生活も試しました。貴重な朝の時間を夫に請う自分。みんなで頑張っていました。私は代替なしの10キロの運転。一体なんなんだか分からなくなりました。

教室付き添いの時期もありましたし、途中から“校内”付き添いに次第に変わっていいきました。保護者控室でも過ごしましたが、気ままに過ごせるからと、駐車場の車の中でよく過ごしていました。

車中では好きなことにふけりました。読書をしたり動画をみたり。(このブログを始めたのが娘が小学1年時の7月末なのですが、駐車場でほとんどの構想をしました。)いい時間でした。そして、だだっ広い学校(肢体の学校なのでバリアフリー)を競歩で闊歩して、吸引だ、発作だ、と呼ばれては、対応していました。(*入学を考えている方へ:越谷特別支援学校では、医療的ケアのある親の付き添い期間を大幅に減らせています。今年度、相談医と検討委員会を全保護者待期期間の最終日に設けたことで、おそらく埼玉県の中ではケア保護者の待期期間を最短にすることができました。ぜひ他の肢体不自由校も追随してほしいです。この数年でもどんどん状況が変わっています。)

次第に、先生方が手技を覚えたり、学校側がゆりちゃんに慣れてきて、少しずつ待機が外れる方向へ向かっていきました。

1年次の秋に気管切開の手術を終えてしばらくした、2年生の声が聞こえる頃のこと、放課後デイサービスにも行けるようになりました。とても楽になったのを覚えています。(そして、そのデイサービスが使えなくなってしまって、そのあとはまた送迎をしていました←みたいなことが起きることもあります。)

本部へのお誘い

そんな生活でしたけども、なんだかんだ学校によく出入りしているものですから、本部の方とも、顔を合わせるようになりまして、本部やってみないか、というお話をうけたんです。つまり勧誘ってことになると思うんですけれども。

精神的にも肉体的にも、余裕があるといえる状態とは程遠い状態でしたので、悩みに悩みました。つとまるのか不安に思いました。

悩みに悩んだ結果、まさか私でなくてもいいでしょうよ、と思い、何度も丁重にお断りした記憶があります。本当に、4回とか5回とか、無理です、ってお伝えしました。

思いがある方が入るのがいいですよと遂に押し切られまして、本部に入ることになりました。

正直ですね、正味そもそも3時間そこそこしか自分の時間がなかった人なのに、ひねり出したその時間以上の時間がお集まりに飛んで消えていった、本部に入って初年度の4月5月6月。

申し訳ないけど、勘弁してほしい、大変申し訳ないが、そんな前例があるのか知らないが、途中ですけど、申し訳ないですけど、私やめますね、って言っちゃおうかなぁって、ライントーク画面を開いて書きかけては消していた日も正直ありました。それが1年目の記憶です。

まさか、今年度こんなことになっていますけれども。本年度に関しては、まさかの会長になりました。

引き受けることで、自分の生活が逼迫します、おそらく。また、自分の能力が晒されるわけですから、無能力・不適だと思われる場合には、想像するに、自分が傷つく経験をすることになるんですよね。

悩みましたし、会長のお話については、首を縦に振るまで、すごく時間がかかりました。首の横振りから斜め振りから、視線をじーっと合わせて“私の心の声をお読み取りください”の顔から(笑)いろいろと経て、結局こんなことになりました。

とてもではないけれど、やらないほうが安全。自分の心の健康の優先順位高いです。やらないほうがいい。

ご迷惑をおかけして自分が傷つく、そういった経験が増えることで心挫かれる、そんな場合ではないんだと心底思っていました。

元気な息子おりまして、今年度小学1年生になるのですけども(昨年度も2年目には絶対こうなるんだよっていう旨申し上げていますが)・・・。(新しい生活のパターン、なんとか掴めたので今やオッケイですが、新1年生の4月のスケジュールは、なかなかでした。)

ちなみにその息子は赤ちゃんが欲しいと言っておりまして、私は今年40、家族計画なるものも気になっております・・・(TMI=too much informationをすみません)。PTAをやったから、子供は2人でおしまいにした、で自分が納得するのか、実際余裕ないから2人でおしまいは妥当なのか、悩んでいたりもします。

あと、できれば仕事もそろそろ本格的にやりたかったり・・・。

本部1年目が終わるころ、会長になる話が出てきたときに、年度末でちょうどいいから、1年でやめる案、なるものをお伝えすることも真剣に考えました。でも結局やっぱり一緒に活動をしてきた本部の皆の顔をみたら言えませんでした。

今、実は辛い思いでここにいます。(就任挨拶としては相応しくない内容と判断して、上記ほぼ挨拶には入れず端折っていますが、これがリアルです。一緒に働きにくいぞ、と思わせてしまったらすみません。聞こえなかったことにしていただいて構いません。もう腹くくってます。やる気一応あります、意義も見出しています、っていう文章が続きますので安心して読み進めてくださいね(笑))

悩みに悩んで・・それでも会長を引き受けた理由

一方で、多くの先生方、ケアルームの先生方、本部で出会った方、学校内でできた尊敬するケアママである戦友のような友人、多大なる支えをいただきながら今日ここまで歩めている、という事実があります。

越谷特別支援学校に足をふみいれたときって、みなさんどんな印象を受けましたか。先生達が超元気で明るい。子供達ひとりひとりに声掛けをしている。子供達はその愛情を受けてのびのび安心している。

なんっていい学校なんだろうなって思いました。活気と前向きなエネルギーがある。だから入学をきめています。入学して以降、今も変わらない印象を受けています。

学校でできることと“できないこと”ってやっぱりあって、もうちょっとこうだったらいいのになぁ、、学校ってものは・・・、なんていう話を保護者同士、支援で関わってくれる方とすることももちろんあるんですけども、(ついつい“不”の部分は大きな音で聞えがちですが)それ以上に言いたいのは、先生方の熱心な姿勢への感謝です。

毎年本当にゆりちゃんを大切にしてくださる先生との出会いが続いていて、常に非常に感謝しています。

学校でやってもらえないことなどに関しても、先生方や看護師さんのせいではないんだな、制度だとか仕組みだとかの問題なんだな、現場の先生方はルールに則ってやっているだけであって、お伝えしていくべきお相手は、県なんだな、制度なんだな、なんてこともだんだんわかってきたりしました。

本部は、県に対する陳情の取りまとめをしています。県へ意見をいう機会もある、ということが分かってからは、障害児者とそのご家族の声をどうやって訴えていくか、陳情するか、といった目線も培われてきたように思います。

PTA活動に興味を持ったことがなかった私でも、誘われるままPTA活動をしていくうちに、学び取れることがたくさんあり、すばらしい経験をさせていただいているんだなぁと感じています。

理事会、総会、などを進めていくにあたっては、庶務さんたちの書類作成力が欠かせないですし、会計さんたちの通年の活動(予算、各種支払い・精算、決算報告)があって成り立っています。

おぼろげながらも全体像が見えてきて、いろいろな方への感謝の気持ちなども非常に感じられるようになってまいりました。

また、実は、会長になるはずだった頼りになるメンバーが大病をされまして、私はその代打で入ることになった、という経緯も忘れずに記しましょう。その方の回復を待って、会長ポジションは残しておく、その間、副として支えて、長がやるような仕事も代行していく、帰ってくるのを待つ、そんな提案もさせていただきました。彼女の回復のモチベーションの為にも、いいのではないかと申し上げました。しかし、入院期間は長期にわたり(もうすぐで半年経ちます)、また会長は外にでていく機会が多いので、そうもいかないね、ということで、引き受けています。

本部のメンバーは、自主的に入っている方がほとんどなので、基本的に責任感が欠如しているような方(連絡なしで現れない、など)はいらっしゃいません。また、事務処理能力やコミュニケーション能力が高くて、一緒に過ごしていていい影響をもらえるな、頼りになるなっていう方ばかりです。そんな方たちが、”支えますから”と言ってくれたので、”頼りにしています”、と伝え、また、今年度も小池校長先生とご一緒できると分かったこともあり(スローガンは、やっちゃえ越谷!)、なんだか、そんなわけで、会長を引き受けることになりました。

その方のために頑張っている、って思うことで、動けている部分が非常に大きいです。

急性期を脱したあとは、病院からリモートでたくさんアドバイスをくれていますし(どんな環境でパソコン打ってるんだい?!と驚きの悲鳴でした)、本当に病人なのかという勢いで働いてくださっています。彼女の回復には励まされます。判断に迷うことばかりですので、相談しまくっています。言葉にできないほど感謝しています。

繋がり、出会いを大切にし、連帯していきたい

さて、わたしたちは、よくよくかんがえてみますと、同じ時代に同じ地域に同じ特別支援学校ですごしている障害児を抱えた親同士です。

つまり、同じ地域で同じような状況の中、悩みや喜びを共有していける仲間でもあるわけです。

埼玉の南東部という地域には、便利さと自然が調和した環境があります。この地域に住んでいるというだけで、私たちには共通点が多く、つながりやすいと感じています。

でも、そんな雰囲気が醸成されているかというとそうでもありません。越谷特別支援学校は学区がとても広いから、地域ごとにいろいろとちがうよね、それぞれの子ども達の悩みもまるで違うよね。なんとなく、いきなり話しかけるのも変かな、なんて遠慮してしまう、そんな雰囲気があります(お上品なのでしょうか、ほほほ)。それでは、ちょっと寂しいのではないかと思っています。

同じでないようで同じ地域で、同じでないようで同じような悩みを抱えている、そう言い切っていいでしょう。気軽に声を掛け合い、助け合える関係を築きたいと思っています。

私は、医療的ケア児を10年育ててきた中で、さまざまな課題や壁に直面しました。その中で気づいたこと、感じたことがたくさんあり、いろいろな問題意識もございます。

自分の経験を踏まえて改善につなげていけたらいいなという思いがあります。ただ、自分が経験した以上の経験をすることはできません。

ですから、どのようなことに不具合を不都合を感じているのか、こうなったらいいんじゃないか、そんなことを、みなさんと一緒に考えられたら嬉しいです

私たちの子どもたちが過ごす環境が整うことは、親の笑顔に繋がります。親の笑顔はまた子どもたちの笑顔に繋がります。そういった環境つくりに注力していく、そういった1年間を過ごせることが、実はとても楽しみでもあります。

私は、支援を受ける側になってから、どういったふうに援助をうけられると、嬉しいものなのかなぁとか、支援をうけるにもコツがいるなぁとか、どんなふうに人間関係を築いていったらいいんだろう、ということをたくさん考えてきました。レジリエンスを発揮できる家族ってどんな家族だろう、支援者に知っていただきたい当事者の想いはなんだろう、支援者側の想いと受援者側の想いに齟齬が出るのはどんな時だろう、そんなことを考察する時間が多いですし、そこを言語化していくことが好きです。

子供の社会資源のリソースの量を決めるのは親次第なところもあるとおもっています。

いい人間関係を築いていくことは、情報にたどり着けるばかりでなく、自分の心の平和も守りますし、子供の可能性を広げられることだと信じています。

親次第なところもある、と言った矢先ですが、こうも思っています。保護者が子供の当たり前の権利を獲得するため、権利擁護のために、不必要な闘いを強いられることない世界になるといいなって思っています。子供達もケアにあたる保護者も先生方もデイサービスの方々もどんな人も、受けられるべき権利を享受できるように、環境を改善していくことが必要です。

少しずつでも、みなさんと力を合わせて、子どもたちがより良い環境で過ごせるように進んでいけたらいいなと心から思っています。

みなさんのストーリーを聞き、共に歩んでいくことができれば、本当にありがたいです。

私はまだ小学校4年生の娘を育てる親であり、経験も浅いため至らない点も多いかと思いますので、皆さんから忌憚なきご意見やアドバイスをお聞かせいただけると今年度やるべき課題が見えてくると思うのでありがたいです。

共に支え合い、より良い未来を作っていけるように、よろしくお願いいたします。

最後に。

今回、私が暑苦しくお声掛けをさせていただいて理事や専門部長になる決断をしてくださった方、くじ引きで導かれて理事に残念ながら当選された方、乗り気ではないけど順番がめぐってきて地区長になった方、推薦で名前を書かれて本部に入ることになってしまった方、本当にありがとうございます。

そこに、会長になってしまった自分を加えまして、全員に共通することは、誰か他の人がやってくれるなら、それでよかったのにこういうことになった、大変すぎやしないか、自分でつとまるのか、一緒に働く人は協力的だろうか、不安でいっぱいでたまらない、そんなことだと思います。(もちろん、もっと前向きな気持ちで入っている人もいると思います。)

やなせたかしさんの言葉を送ります。

“これはちょっと自分には向かないんじゃないか、なんて考えないで、ただやることです。やっていくなかで巡り合う「人」が大事なんです。声をかけられたことは「できない」と断らずに、無理やりにでもやってしまえばいいんです。やっていくうちに身につくから心配しなくて大丈夫。大事なのはどんな仕事でも一生懸命やること。一生懸命やったことならたとえ失敗体験だとしてもあとになって全部役立ちます。何がどうつながっていくかはわからない。だから流れに身を任せながらも来た仕事は一生懸命にやる。”

やなせたかし 

出典:最高齢プロフェッショナルの教え 徳間書店

PTAでやってみたいこと、たくさんある気がしますが、くれぐれもがんばりすぎないように、と(なんにもしていない段階なのに)先代の会長たちからご助言いただきました。

お勤め、学びの機会、が始まるという認識であります。特に、自分がどうあるべきか、考える機会がたくさんあると思っています。仕組みを改善しさえすれば防げそうなトラブルについては、未然に防ぎたいので、ワークフローの見直しなども積極的に行っていきたいです。

特に、今後、学校側に決裁を仰ぐ場面が多くあると思うのですが、多大なコミュニケーションコストが強いられたにもかかわらず企画が遂行できない(もったいない!)顛末、といった事態については、保護者が疲弊する原因ですので、危惧します。企画持ち込みの段階で、懸念や条件等を洗い出し、学校側の意志決定プロセス(何をクリアすると”できる”)を明確にしていただき、お互いにロスのないやりとりを求めていきたいと思います。あくまで、PTAはボランティアです。PTAとして、どこまで役割を委譲されているのか、学校とPTAの責任分界点、そのあたり都度求めながら、良好な関係を築きたいと思っています。(ここも挨拶では言っていませんが、昨年度本部、一昨年度理事、をして感じている本音です。)

とはいえ、ゆりちゃんを抱えながらも、このようなお役割がきたということは、誰かがゆりちゃんの体調が良い、って判断しているんだと思うのだと思うと感慨深いといいますか、ハナマルをもらったみたいで嬉しいです。さて、またとない機会、精進してまいりたいと思います。

(挨拶よかったよ、胸打たれました、涙がでました、など閉会後お声がけくださったり、わざわざご連絡くださった方がいらっしゃいました。不安しか感じていなく、お通夜みたいな気持ちでしたので、言葉では形容しきれず陳腐な表現にはなりますが、聞こえているよ、という声、本当に有難かったです。安堵して泣きそうでした。本当に???と確認してしまいました。頼りないと思います。どうぞよろしくお願いします。)

厳かな気持ちでスタートしています。この2曲を付します。(「国宝」最高傑作が爆誕!)

Luminance「国宝」

to build a home 

ではでは。