突然の緊急搬送と、産院に残された私
*NICU=Neonatal Intensive Care Unitの略(新生児のための集中治療室)
産後の養生なんてものはなかった。
出産を終えた翌日のこと。11月の寒雨の夜。私の赤ちゃんは、救急車のサイレンと共に消えていった。
大袈裟なけたたましい音のサイレンが近づくと、その音が止まった。赤ちゃんを乗せる救急車が産院に到着した。医療者に付き添われ、コットに入った小さな命は、立派なもので、大きな子ども病院を目指して産院を去った。母は1人、誰からも必要とされていないみたいに、ぽつんと産院に残された。さすがに堪えた。できることは少なかった。
- 赤ちゃんと離れた私。
- もうおなかは大きくない。
- 可愛かった胎動。
- 期待に満ちた妊娠期間。
- 赤ちゃんは救急車に一人で乗って遠くへ。
- この世に生まれてたった一日。
- もう私のおなかは動かない。
- 胎動のないお腹。
- 抱いているはずの赤ちゃんを抱いていない腕。
- 全身痛。
- だらりと流れる涙。
ちょっと、出産前と出産と産後と、変化が目まぐるしすぎて、理解が追いつかず、浮遊感があった。赤ちゃんって、生まれてすぐって、私のフルネーム+ベビー(〇〇〇しほベビー、ということです)と呼ばれていた。まだお名前もないのに、なんだか堂々として見えた。立派な子。これがDAY1のゆりちゃんです。切なくて苦しくて胎動のないお腹と赤ちゃんを抱けるでもない持て余した両腕で自分の両の肘を包み込むようにして、無力感でいっぱいで涙がこぼれないように目を見開いて救急隊員に礼をして、赤ちゃんに何を言ったか分からないけど見送りの言葉(ママのことを忘れないで、すぐに会いにいくからね、がんばってえらいね、とか、大丈夫だよとか)を実際に言ったんだか思っただけだったか、あっという間の出来事に茫然と産院のフロアーで立ち尽くしていたのがDAY1のゆりちゃんママです。
雨の夜に消えていった赤ちゃんと伴走車
雨の夜に消えていった赤ちゃん、忘れもしません。
付き添い出産の疲れも残る中、夫は1人どんな思いで、運転したのでしょうか。名前もまだ提出されていない赤ちゃんの新米パパの大仕事は、救急車を追いかけることでした。
運転のうまいパパはなぜか救急車より先に到着して(ちょっと自慢気でしたね(笑))、けたたましくサイレンを鳴らしながら病院に到着する我が子を玄関で迎えたそうです。
あれがお父さん、あれは赤ちゃん、人が目をやります。なんといっても子ども病院ですから、NICU経験者たちも少なくなかったでしょうが、救急隊が到着すれば、注意をひきます。
夫はこの寒い雨の夜の情景、みんなの視線を忘れられないと後に言っていました。
(8年経った今もこの病院に通っているとは、この時は知る由もありません。狼狽して緊急搬送入口にたどり着くご家族や待合室にいる大事そうに包まれている小さな赤ちゃんとそのご家族に、優しい視線をそっと注ぐ側になっているなんて。)
ひとり産院に残った私とこれから
ひとり、産院に残った私は、明日になったらNICUにお見舞いにいってもいい、と言われました。嬉しかったと記憶しています。
早速だけれど、と続けて言われた言葉は、『産院では、(赤ちゃんのみが搬送された今となっては)赤ちゃんのケアに関する指導をすることがないし、早く退院するのはいかがか』でした。出産した産院の考えでは、NICUへ産院から面会に通うよりも、家から通う方が便宜が良さそうという見解です。一見理にかなっている提案をされているようにも聞こえますが、なんだか、悲しかったと記憶しています。妊娠期間中ずっと頼りにしていた場所から、あっけなく突き放されたようで、不安でした。
搬送日の夜(私の場合、出産翌日です)は一人安静にしていました。
病院食の食札のプレート立てをこっそり一つ勝手に拝借して返却をせずに、私は、それを写真立てにすることにしました。そのくらいのことは認められるほどのことが起きている気がしたのです。搬送直前に私が寂しくないようにと気遣われて看護師さんから頂いたたった1枚の赤ちゃんの可愛い写真を見ながら過ごしていました。またすぐに会える、とニコニコ見つめながら。
産後の母子の愛着形成って大事なことだと聞いていたけど、赤ちゃんがいなくてどうしようもなくって悲しかった。でも、写真があって助かりました。食札の写真立のおかげで、赤ちゃんを見ながら両手で搾乳ができました。おっぱいがちゃんと出るようにと、産後すぐから、欠かさず3時間毎に起きて、写真を見ながら搾乳をしていたのでした。
その夜中はどうして自分だけが赤ちゃんと一緒にいられないのかと、苦しくて苦しくて泣いていました。
泣きながら、涙に水分がもっていかれるなんてもったいない、と思っていました。多くのお母さんが、よくわからないけど、産後泣く、には共感してもらえると思います。きっと、産後のホルモンのせいでしょう。
出産直後は実は大部屋へ行ったんだ、という話
さて、赤ちゃんの搬送という概念が出てきたのは、私の場合は、ちょうど産後まる1日経つかどうかの頃でした。実は出産直後は大部屋に通されています。
産後ハイのDAY0の私は、すぐにお友達を作っていました。粒ぞろいの超面白メンバー部屋に運よく入ったことが分かり、社会性とユーモアたっぷりの素敵なママたちに迎えられ、みんなでどんなに痛い思いをしたかをゲラゲラ笑いながら話しました。
部屋名をグループ名にしたライングループもつくり、産後数年は特にとても仲良くしました。
私の出産も超面白かったので(笑)みんなで笑い転げていました。Shihoppiは、耐え難い史上最強の痛みに我を忘れて、ついつい”英語で”長尺で叫んでしまった瞬間もあって、それが部屋ママさんに捉えられていたりしていて(あの人か!笑、と言われたけど、こっちとしては、あの部屋、防音じゃないのか!恥、でした(笑))正気に戻った今となると可笑しかったですし、私ばかりでなくて、そのエピソードには勝てないです、っていう強いエピソードをみんなもっていたので(おまたのことばかりなので、自粛しますね!)お互いの健闘を称えあっていました笑。産まれるってすごい!
それで、私は、私の赤ちゃんがナースステーションにあずかられたままでなかなか引き渡されないことに一抹の不安を覚え始めたものの、部屋のメンバーに励まされながら、よく眠れてラッキーだな、親孝行な赤ちゃんです、なんて言いながら、素敵な産後初日の夜を without worrying too much 心配し過ぎないで眠りについたのです。
それが、翌朝になっても、私のもとに赤ちゃんは引き渡されなかった。微熱が続いていること、髄膜炎の疑いを晴らすために、念のためいまから検査をする、という話しが続きました。『しほりんの赤ちゃんはまだ?』『うん、まだみたい』『ステーションに見に行ってくる^^』『早く抱っこしたいなー』『ゆりちゃんに会えるまで、うちの〇〇くんを抱っこしていいよ』『わぁ^^』・・・そんな会話を初めてママの初めての素敵なママ友さんと続けながら、一方で事態の深刻さについての話が徐々に私に伝えられていったわけです。
大部屋での温度と全然違う、お話を受ける部屋に通されたときは、ちょっと事態がよくわかりませんでした。ちょっと分からな過ぎて、自分の体から魂が抜けて斜め上の方向から部屋全体を見渡している、”自分その2”が現れました。大変な話をされている自分、を俯瞰で捉える、という経験をしました。大変な話を冷静に聞きながら一生懸命メモをとって先生に質問をする自分を上からのビューで捉えていました。(この経験はのちに、厳しい話を聞くときに、何度も何度もすることになります。)
『腰椎穿刺をします』という説明を受けたときは、刺されてもいないのにものすごく腰が痛みました。医療素人でもわかる。すごく痛いって聞いたことがある。。。
1人部屋への移動の提案がありました。悲しみに拍車をかけました。きっと、面会にきた家族に、深刻な話をしなくはならないだろうから、大部屋から私を取り除きたがっていた。
きっと泣いてふさぎ込むだろうから。
きっと取り乱すだろうから。
きっと、きっと、他のママと赤ちゃんたちを見ていられないような、そんな気分になるだろうから。
・・・そんな気遣いがおぞましかった。ママになっていくのって私自身が凄く楽しみだったのに、楽しい子育てに水を差されたように感じた。赤ちゃんに何かがもしもあるのだとすれば、今週赤ちゃんを産んだもの同士で支えあえたらすごくいいのにって反論したかった。
だって、いま目の前に大切な命を抱きしめているこのお母さんたちは、この赤ちゃんの命のはかなさを今感じている。その強さを無条件に信じている。あのとき部屋を変わったけど、運よく変わらずに温かい交流が続き、このお母さんたちとの繋がりがどれほど自分を支えたか感謝してもしきれません。
追い出されるように病院を出る
出産を終えた私は(初産婦、真面目な性格)質問はたくさんあるわけだから、他の方たちに対する指導を見させて頂いて学ばせてもらう必要ってないのかな、沐浴練習もやりたかったのにな、なんて考えていました。
それに大変化を遂げた私の身体についても知りたいことがいくらでもありました。
産後のホルモンのめまぐるしいジェットコースターのせいでしょうか。
妊娠中に上がり続けた女性ホルモンは出産と共に超急降下するらしく、普段の生理前後のホルモンの上下をマンションの10階からの降下だとすると、産後のそれは、エベレストの山頂からスカイダイブするような急降下だとも、例えられます。
看護師さんたちのちょっとしたものの言い方も表情もすべてが気になりました。
産後の身体のめまぐるしい変化もこの身体の痛みも誰も私のことを気にしないのでしょうか。
入院期間はみんなより2日短縮され、追い出されるように病院を出るのでした。何とも言えない挫かれるような気持ちでした。でも、もう赤ちゃんはお腹の中じゃない、だから、産院じゃない、もう生まれたんだから、子ども病院のお医者さんたちとやっていかなくっちゃ。産科ではなくて、新生児科、そこに行かなくちゃ。
部屋ママ達が見せてくれた、人があるべき姿
大部屋のままで全然いいな、って心底思っていました。みんな、いろいろな妊娠期間のトラブルだってあったわけです。赤ちゃんだって、飲むのも出すのも、大きさも、みんな課題があって、母も子も新しい始まりを十人十様で迎えていました。オンパレードです。だから、ゆりちゃんのようなことも、そのバリエーションの一つと捉えれば、そのまま大部屋にいたかった。結局、一人部屋に移ったけれどね。(ちなみに、1人部屋を望む人が多いと思いますが、私の場合、産後メンバーに恵まれたのと1人目の出産でテンションが高かった&分からないことだらけの、人がいる環境を欲していました)私が赤ちゃんになかなか会わせてもらえないからって、部屋のママは、ほかほかの可愛すぎる自分の赤ちゃんを抱かせてくれました。
本当に思いやりにあふれている人が多くて、いろいろなタイミングで、抱っこさせてくれました。
げっぷしたね、とか、手相がかわいいね、とか、いい匂いがするね、とか、爪がなんて美しいのだろうね、とか、一緒にあかちゃんのお世話をして、たくさん話しました。
全部一緒に楽しい時間を共有してくれて、1人部屋になって以降の数日間もそのあとも、支えてくれました。
そして、授乳室で夜中に落ちあうと、おしゃべりに花が咲いて、さんま御殿の続きをしていました、笑。家に帰ってからの眠れない日々に備えたいところなのに、目がらんらん、めちゃめちゃしゃべっている入院期間でした(笑)。
数日目に、不安からかものすごく恐ろしい夢を見た私。気が付いたら、ふと泣いてしまいました。そうすると、それは吉夢だと言ってくれる人があり、夢占いトークで盛り上がったりもしました、笑。
なんだか、入院期間はとてもいい思い出です。
NICUに母乳を運ぶ日々の始まり
NICUに母乳を運ぶ日々の始まりです。
産後の体でよちよち歩きで夫の運転で産院から毎夕面会をしに行きました。過酷でした。夫に歩みを合わせてくれと言いながら行きました、すたこらさっさと歩けないのは人生初めてでした。退院してからは、自分の運転で面会に行くようになりました。日々、公共交通機関を使っていくのと運転でいくのとどっちのほうが楽なのか問答しながら、たいてい自家用車を選択する日のほうが多かった気がします。赤ちゃんが一緒にいないとはいえ、一日中夜中も3時間おきの搾乳を自分に課して過ごしていたし、得意でもない運転をして疲弊していました。
ちなみに、私が産院を退院する日、おめでとうございます、という雰囲気ではありませんでした。
赤ちゃんと一緒に送り出されて、記念撮影をしている家族を横目に、全く別の経験をする私がいました。赤ちゃんと病院を出る日に憧れながら、いつまでになるかわからないNICU生活が始まりました。
退院の日、看護師さんたちは優しかったです。ただ、悲しそうな顔をしないでほしかったけれど。
私がむしろ、赤ちゃんのために搾乳を頑張るね、That is all I can do それが今できることだから、それしかできないけど、頑張る、赤ちゃんも頑張っているから、と看護師たちに気丈に振る舞うのでした。状況が分からな過ぎて、無知すぎて、泣くでもない私は、どう映ったでしょうか。
私が私に言い聞かせているんだ、というのは、先生たちはお見通しだったかもしれませんが。ちょっと元気すぎる私に送ってくれた先生たちの優しい視線に励まされました。泣きませんでした。
赤ちゃん、どうか、どうにか私のことを忘れないでくださいと思いながら退院するのでした。
搬送前にやってもらって最大に嬉しかったことは、一滴のおっぱいを飲ませてあげたこと。
産後のすぐのラッチオン母子の肌の密着、を大切にしたい、そうであるべきだ、と思っていた私はそれができてうれしかった。
それから、いつのまに保育器の中の赤ちゃんの写真を撮っていてくれて、現像してくれて、搬送時に別れを惜しむ私に一枚の写真をくれたこと。
私はその写真を大切に大切にしました。
まとめ(入院期間・申請など)
今回の記事で、知ってもらえたら嬉しいことは、
- おめでとうございます、でいいのに、言ってもらえない、とちょっと傷つく
- 大部屋でもよかったかもだけど、1人部屋に移ることを(部屋で塞ぎこむのが当たり前の反応と期待されているようにすら感じた)勧められるとちょっと傷つく
- ナースステーションで、ガラス越しの見えるところに置いてくれてもいいのに(見に行けて見れたら嬉しいのに)、赤ちゃんが見えないところに(隠すべきもののように)隠されるように置かれるとちょっと傷つく
ゆりちゃんの場合は、NICU新生児集中治療室への入院期間は1週間、そのままGCU新生児回復治療室へ移動して2週間かかっています。
*新生児の1ヶ月検診に間に合って退院し、産院に連れて行けたとき、産院の仲間と再会が叶ってとても嬉しかったです。。。
赤ちゃんに会いにいくのと併せで、家族と協力して時間を作り、NICUに赤ちゃんがいる間に、役所へもいきましょう。病院のソーシャルワーカーさんがいろいろなことを教えてくれます。当たり前ですが、まずは出生届の提出、健康保険の加入、です。
そして、高額療養費の制度があるので、限度額適用認定の申請を忘れずに。障害の重い子供を育てていますが、びっくりするような高額請求が来うるのは、このNICUの時くらいかもしれないです。なので限度額、これの申請をお早めに!そのあとは、こども医療、小児慢性(”しょーまん”といいます)などがカバーしていくイメージです。*要確認
追記:産科の看護師さんたちへの本音
産科の看護師さんたちに思うのは、NICUに搬送されることになる=おめでとうございます”じゃない”、って思ってほしくないですね。
まずは、赤ちゃんの誕生、一緒に喜んでくれたら嬉しいです。
看護師さんにとって、大勢の元気な子(沐浴指導、おっぱい指導)と、N行きになっちゃった子(救急搬送&医療センターに申し送り済=タスク完了!)、のようにとらえられているように感じたのですが、長いこと、赤ちゃんに会うことを楽しみに過ごしてきただだの人が、いまお母さんになりました、今日が一日目なんです、っていう私の気持ちに寄り添ってもらえたら嬉しいです。
いま生まれたばかりの赤ちゃんのお母さんになった私としては、赤ちゃんの誕生を目の当たりにして、我が子の生命力を確かに感じているのです。(他の赤ちゃんの状態と相対的に捉えてない、いま自分が産んだ赤ちゃんを絶対的に捉えているし、不安ながらも、その強さに期待している)
あの時の私には、どんな風に声をかけたらよかったのかなってよく考えます。産科の看護師さんたちにあの時の私について何か伝えられるなら何だろうな、って今も考えています。これからも、ずっと考えていきたいテーマです。
嬉しかったことは、
- サプライズで写真をくれたこと、
- おっぱいをちょっとでもあげるというやりたいことを産後すぐ&搬送直前にかなえてくれたこと、
- 赤ちゃんのぬくもりを分けてくれたお友達、
- 出産トークで部屋のママと笑った時間、
- 搬送後の赤ちゃんの様子をずっと気にしてくれた看護師さん
- なんならずっと気にかけてくれて個人的にお家にまで来てくれた↑看護師さん
- 私の目を見て穏やかに微笑んでくれた経験の多いドクター
ちょっと悲しかったことは、部屋を変える提案、早く退院する提案、おめでとうではないんだとこちらが感じてしまうこと。
誰かに、ここにいちゃいけないんだ、って思わせることが悲しいことだと思った。看護師さんたちって毎日出産をみていて、お部屋をどう組むか、仕事をまわしていく都合とかあるんでしょうけど、やっぱり、昨日と今日と明日がこんなに目まぐるしく変わる一週間っていうのは人生でないわけだから、気持ちが追いついているか、そういった配慮ってしてもし過ぎることはないなって思っています。
誰かに、ここにいていいんだよ、気にしているよ、この人はこの人がやりたいことやれているのかな、あなたの力を信じているよ、って感じさせることが優しさだと思った😌
今回は私の産後~NICU通い始めのころのことを徒然なるままに書いてみました。
ではでは。(↓元気出る曲つけたので、よかったら聞いてみてください!)
NICU入院中、子の退院を待ちながら聴きたい曲(抜粋)